1892年1月28日、ベルリンに生まれる。喜劇俳優ヴィクトル・アルノルドに師事し、寄席に出演のかたわら、ビオスコープ撮影所で小道具係や照明の助手をつとめる。19歳の時、マックス・ラインハルトの劇団に参加。翌年に喜劇俳優として映画界に入り、22歳で最初の短篇を撮り、監督と俳優の二役をこなす。名脚本家ハンス・クレリとの共作が始まり、その関係はハリウッド時代まで続く。18年、ポーラ・ネグリとエミール・ヤニングス共演の処女作「呪の眼」が成功。続くポーラ・ネグリ主演の「パッション」(19)等の史劇大作によって、第一次大戦後のドイツ映画界の頂点に立つ。が、実験的なコメディの探求も忘れてはいない。1923年ハリウッドに招かれ、「結婚哲学」(24)に始まる結婚喜劇、ソフィスティケーテッド・コメディに天才的な冴えをみせ、ハリウッドに大きな影響を与える。トーキー時代に入ると、モーリス・シュヴァリエを起用した「ラヴ・パレード」(29)に始まるオペレッタ映画を連作した。脚本には、サムソン・ラファエルソンを重用、ワーナーからパラマウントに移り、「ルビッチ・タッチ」と伝説化される洒脱なテクニックで、「生活の設計」(33)や「天使」(37)に代表されるような二人の男の間で揺れ動く女心を見事に描き出した。39年、ルビッチを尊敬するグレタ・ガルボと「ニノチカ」(39)を撮るため、M・G・Mに出向く。43年から20世紀フォックスで、プロデューサー兼任の監督として「天国は待ってくれる」(43)を撮り上げた直後、心臓発作で倒れる。この時は回復したものの、47年、「That Lady in Ermine」を一週間撮影したところで、六度目の心臓発作に襲われ、47年11月30日、ハリウッドにて永眠する。
男だったら Ich möchte kein Mann sein 1918
花嫁人形 Die Puppe 1919
牡蠣の王女 Die Austernprinzessin 1919
パッション Madame DuBarry 1919
寵姫ズムルン Sumurun 1920
デセプション Anna Boleyn 1920
山猫リュシカ Die Bergkatze 1921
結婚哲学 The Marriage Circle 1924
ウィンダミア婦人の扇 Lady Windermere's Fan 1925
陽気な巴里っ子 So This is Paris 1926
思ひ出 The Student Prince in Old Hiderberg 1928
モンテ・カルロ Monte Carlo 1930
ニノチカ Ninotchka 1939