1880年生まれの野村芳亭の映画との関わりはリュミエール兄弟のシネマトグラフから始まる。父の芳国は劇場の看板や背景画を描く絵師であり、芳亭は京都の劇界に関係しており松竹の創始者である白井松次郎、大谷竹次郎とは親密であった。父の死後は芝居絵の制作を引き継ぐが1897年に稲畑勝太郎がシネマトグラフを持って帰国したときにはその上映にも協力していた。日露戦争後の好景気で興行界が活気づいた頃にはキネオラマという電気照明を使ったパノラマが流行しその背景画や照明でも成功していた。その後映画が上映されるようになると芝居と映画を組み合わせた「連鎖劇」などの監督や経営にも加わっている。撮影ではマキノ省三が出入りしていた大阪の天活にも出入りし、松竹が映画を本格的に始める1920年には新派劇の本郷座の頭取で蒲田撮影所の理事職にあった。そして映画の興行を軌道に乗せるために請われて撮影所長と監督を兼ねるようになったのである。第1作は1921年の「夕刊売り」で以後メロドラマとホームドラマを松竹にもたらせた。
母 1929