戦時中多くの映画監督たちが国策映画や戦意昂揚映画を撮ったことはよく知られているが、そのなかでも熊谷久虎の存在は特異である。1904年に大分県中津市に生まれた熊谷は父親の従兄弟で日活重役だった池永浩久の伝で、25年に大将軍撮影所に入社した。池永は当時の撮影所長であり、豪放な性格から「連隊長」の異名をとっていた。田坂具隆の組についた熊谷は、30年に監督昇進、『恋愛競技場』を第一作に師匠田坂の作風を受け継いだ青春ムードの明るい作品が続いた。35年に日活多摩川撮影所に移り、翌36年本作『情熱の詩人啄木』で一躍日本映画界期待の新人監督として認められた。そして翌37年『蒼氓(そうぼう)』での成功は、早くも彼を一流監督の地位に昇りつめさせた。原作は第一回芥川賞受賞の石川達三の小説で、ブラジルへ移民する農民たちが神戸の移民収容所で乗船する一週間前の集団生活の日々を描いた群像劇で当時の日本の暗い社会事情を反映した骨太な作品である。いわゆる小市民映画とは一線を画する熊谷の重厚な作風は、それが当時の現代劇の主流ではなかったために貴重な存在だった。翌年東宝に移籍した熊谷は38年森鴎外原作の『阿部一族』を発表、封建制度下の殉死というテーマで彼の抵抗精神をモチーフにした重厚な作風は頂点を極めたかにみえた。しかし戦時体制下の思想統制は彼の作家的資質の方向性を大きく変え、直後に撮った『上海陸戦隊』(39年)や『指導物語』(41年)は極端に形骸化された国策映画であり、それまでの作品に見られた批判性や抵抗精神などは姿を消し、その変貌ぶりに多くの人は戸惑いを隠せなかった。その後熊谷は映画を離れて国粋主義思想研究団体「すめら塾」を結成し、リーダーとして政治活動に没頭していった。当時の国家の指導のもと多くの映画人が戦意昂揚・国策映画を製作し戦争協力を果たしたことは周知の事実だが、熊谷の場合その大真面目な極右的国粋主義思想への傾倒ぶりが人々の(特に映画評論家の)困惑をいっそう大きくした。後年研究者たちはその変貌の要因を「ドイツに渡りヒットラーにあってファシズムにかぶれた」ことや、「所属会社の東宝の保身第一の安全主義」や「強圧を加えた軍部の要請」といったことに見出したりしたが、いずれにせよ熊谷の評価はこの時期に大きく変化し、以後覆ることはなかった。戦後49年、義理の妹にあたる原節子も参加した芸研プロを創立、プロデューサーとしての活動を始める。そして53年には東宝に復帰して映画監督を再開した。58年にかけての5年間に5本の作品を発表するが、57年の『智恵子抄』が評価を受けた程度であった。戦後の熊谷の映画活動は、戦争中の彼の政治活動に対する贖罪とはならなかったようだ。しかしさわやかな好篇として人気を博した1954年の『ノンちゃん雲に乗る』と『柿の木のある家』は熊谷が第二次芸研プロでプロデュースした作品であることはあまり知られていない。
情熱の詩人 啄木 1936