講演「特集 溝口健二と成瀬巳喜男」
2008年2月7日
西山洋市(映画作家)
こんにちは、西山です。僕は演出家の端くれなんですけれども、演出家になった後に、それ以前に観ていた溝口と成瀬の映画を改めて観直す機会がありまして、ふたりの演出に非常に興味をもちました。未だにとても興味をもっています。どの辺に興味をもったのかということを、今日、映像の抜粋などで具体的に確認しつつ、お話できたらと思っています。
今、演出と言いましたけれども、じゃあ映画の演出って何なんだということを、以降の話にも関わってくることなので、最初に簡単に言っておきたいなと思います。例えば、溝口健二であれば、真っ先に長回しということが言われますよね。それから、成瀬であれば、端正で的確なカット割りということがすぐ言われます。それらは確かに演出のひとつではあるのですが、僕がこれから語る演出とはちょっと違うものです。長回しとかカット割りというのは、演出の結果であって起源ではないというのが僕の考え方です。というのは、演出家がまず何をするかというと、出演者の芝居の演出をするんですね。芝居の演出というと、演劇、舞台劇と混同されるかもしれませんが、そうではなくてやはり映画的な芝居というものがある。カメラが介在しているので、舞台劇とは全然違う芝居というものが映画では作られるわけです。
成瀬に関していうと、成瀬監督は現場で役者さんに何も言わなかったと色々な本に書いてあります。何も言わないで演出したことになるのかと思われるかもしれませんが、では、何も言わなかったということのその「何も」とは一体何なのか。例えば、小津安二郎のように役者さんの台詞の言い方を逐一コントロールする。それから、小津の映画では登場人物が似たような仕草をすることが演出の特徴になっていますが、その仕草を逐一振り付けていく。おそらく皆さんにとっては、演出というとそういうイメージがあるかもしれません。けれども、演出というのはそれだけではないんですね。成瀬が何も言わなかったというのは、おそらく小津のようには言わなかったということだと思います。じゃあ成瀬は何をしたのかというと、ある撮影場所で、そこに出てくる人物の誰をどの位置に置き、それからその位置ともうひとりの人物の位置のあいだの距離をどのくらいにしようか決めて、次にそれらの人物の体の向き、正面を向けようか、横向けようか、あるいは互い違いにしようか、それを決めて、さらに、芝居の流れで、どの台詞のときにどの人物が立ち上がってどっちの方向に動くか、次の人物は次の台詞のときにどっちの方向に動いてどういう顔の向きで台詞を言うか、そういうことを逐一決めていたんだと思います。映画を観れば分かりますね。どの映画を観てもこれは成瀬がやったに違いないと思われるような典型的なシーンというのがいくつも出てくるわけです。つまり成瀬は何も言わなかったわけではなくて、そういう具体的なことをすべて彼のやり方で決定していったわけです。
そういった外形的なことを決めることがじゃあ演出になるのか、芝居の演出になるのかどうなのか、という疑問が次に出てきますが、これはなります。ある人物をある場所のどこに置くかによって役者さんはその芝居の狙いというものを理解するわけです。それから、監督が設定するある人物とある人物の距離によっても、役者さんはその芝居の狙いを理解するわけです。次に体の向き、それから動き、そういった外形的なものすべてから役者さんは監督が狙っているそのシーンの狙い、コンセプトというものを理解していくわけですね。そうすると、位置をちょっと変えるだけで芝居が変わってくるんです。距離を変えるだけで芝居が変わってきます。当然、動きを変えれば芝居が変わってくるわけです。真っ正面に向き合って喋っているという芝居ならそのような芝居になりますが、背と背を向き合わせて芝居をしてくださいと言えば芝居自体がまったく変わってくるわけです。出てくるものが違ってくるわけです。成瀬がやったことというのは、それらの複雑な組み合わせですね。
更に言いますと、成瀬の映画に脇役でよく出てくる中北千枝子さんという女優さんがいます。今日上映した『流れる』でいうと、高峰秀子の叔母さんですね。子どもを連れて居候をしている叔母さん役です。あの方のインタビューを読むと、やっぱり成瀬は何も言わなかったらしいのですが、じゃあ彼女に対して成瀬が何をしたかというと、衣装を決めるのにとても時間をかけたと彼女は言っているんです。『流れる』ではよく浴衣を着ていましたけれども、彼女がその浴衣をきれいに着こなして現場に行ったら、成瀬監督が寄ってきてその浴衣をぐじゃぐじゃにしたと言っています。きれいに着こなしていた浴衣をだらしなくぐしゃぐしゃにしたと。成瀬は何も言わずにそういうことをしたらしいのですが、それで中北さんはこの役はそういう方向性でいくんだということを理解したと言うんです。つまり、衣装であるとか衣装の着方に反応して、役者さんはああいうキャラクターでいこうと役の方向性を決めていった。それによって出てくる芝居がやっぱり違うんですね。成瀬は台詞をどう言えとか、どんな仕草をしろとかは言わなかったけれども、そういう風にして、人物の動きであるとか距離であるとか、それから衣装ですね、そういった外形的なものを逐一決めていくことによって、その役の方向性、それから作品のコンセプトみたいなものを役者に伝えていったということだと思います。
それによって成瀬がどんな世界を描いたかということが次の話なんですけれども、成瀬の演出といったときに、成瀬の映画といったときに、真っ先に思い出すのが、あるシーンのなかで、ひとりの人物がほかの人物に対して背中を向けるという動きがとても多いなということです。特に重要なシーン、ドラマの上で人物と人物の関係がそこで動くような決定的な出来事が起こるシーンで、ある人物がほかの人物に向かってある瞬間に背中を向けて台詞を言う。あるいは、背中を向けて歩いてから振り向いて台詞を言う。もうひとりの人物もさらにその人物を追いかけるようにして、背中を向けたりとかして台詞を言う。極端な場合は、その現場にいる三人の登場人物が、順繰りに背中を見せ合いながら、自分の主張なり相手に対する不満なり、それからある過去の出来事の思い出なり悔恨なり、そういったものを語り合っていくようなシーンもある位ですね。その位、成瀬の映画で、人物が背中を向ける動きというのは多いし、決定的なシーンで使われている。その背中を向ける動きで成瀬が何を描いているのかというと、これが実に幅広いですね。ひとつではないです。ある女性が背中を向けることによって男性を誘惑することもあれば、ある種のためらいであるとか、それから葛藤であるとか、それから誘惑とはまったく正反対の拒絶ですね、背中を向けることによって相手の言ったことを拒絶する、実に幅広いレンジの人間の感情であるとか心理であるとかそれから思考の動きみたいなものを色々なヴァリエーションで描いていく。その動き方もひとつではなくて色々な風になされていまして、その背中を見せる動きというものを彼はずっと追求していて、その演出方法を洗練させていったのではないかと思われる位ですね。
とりあえず順番に、実際に観てもらってですね、その演出について考えてみたいと思います。実はこれ、成瀬の話だけではなくて、溝口にもそういうシーンがたくさんあります。成瀬とは若干背中の使い方が違いますけれども、そこに溝口と成瀬の演出家としての資質の違いみたいなものが端的に現れているとも思います。では、まず成瀬の『めし』という映画のなかのですね、おそらくシーン三つくらいにまたがると思うのですが、そういうシークエンスを続けて観てください。五、六分あるかと思います。じゃあ『めし』をお願いします。
(『めし』の抜粋の上映)
はい、どうもありがとうございます。今の最初のシーンでいうと、二階にあがってきた男は上原謙で、寝そべっている女性が島崎雪子さんという女優さんです。ふたりの関係は叔父さんと姪っ子ですね。そうは見えないんですけれども。歳が近いということでしょうか。姪っ子が夫婦の家に転がり込んできている、居候しているという設定です。上原謙が二階にいる姪っ子の所に行くと、姪っ子が昼寝か何かしています。最初は窓の外から撮っているので、ただ上原謙が二階にあがってきたという風にしか見えないのですが、彼が窓枠に座って、次にカメラが切り返すと彼女が寝ている。それで、彼女が寝ていたことが分かるようになっているのですが、最初、彼女の顔ではなくて背中を撮っているんですね。そして、上原謙が何か色気にたじろいでちょっと動揺するという風になっています。寝顔を見て動揺するのではなくて、後ろ姿、背中を見て動揺するという風に演出しています。シナリオにどう書かれていたのかは分かりませんけれども、まずあの位置にあの姪っ子が寝ていると上原謙があがってきて、姪っ子の前にしゃがんで姪っ子を見るのではなくて、わざわざ後ろに回って、窓枠に座ってから姪っ子を見る、背中を見るというように成瀬が動きの設計をしているのだと思います。女性の背中が誘惑するのだという語り口ですね。これは成瀬のある種の定番です。多くの場合、これとは逆に女性が窓際に立って外を眺めている。そして、奥の部屋に男性がいて女性の後ろ姿、背中を眺めている、そのことによって誘惑が発生するというシチュエーションが、成瀬の映画ではたくさん見られます。それに近いものですけれども、ここではわざわざ上原謙を窓枠に座らせて、姪っ子の背中を見せるようにしている、また、背中の毛布がずれて色っぽくみえるように演出しているわけですね。そして姪っ子の鼻血になる。叔父さんと姪っ子ですけど何か非常にエロティックな感じで撮っていますね。このエロティシズムは成瀬独自のものだと思うのですが、そのエロティシズムを醸し出す上であの背中を見せるということがとっても大きいのではないかと思われます。
後半になると、原節子が演じる奥さんが帰ってきます。ワイシャツに鼻血なんかつけちゃって何をしていたんだと言って、旦那をちょっと怒るわけですね。そして、腹が減ったと言う旦那に背を向けて流しの方に行くわけです。で、流しの上がり框のようなところに座り込んで、旦那への不満のようなものを述べ始めるのですが、完全に旦那に背を向けて喋っているんですね。おそらくシナリオにはあそこに座るとか背を見せて座るということは書かれていないと思うのですが、成瀬がそのように演出することによって何が起こったかというと、原節子のダイアローグがほとんどモノローグみたいな状態になってしまっているんですね。夫に向けて述べているはずの不満が、独り言みたいになっちゃっている。しかも、奥で寝そべっている上原謙は背中越しに撮られているので、どんな顔をして聞いているかまったく分からない。原節子がその不満を述べ終わった後も特別その言葉に反応するわけではなく、だらしなくだらりと寝返りをうつだけです。つまり、原節子が上原謙に背中を向けて拒絶のポーズをとることが一つのポイントなんですが、ダイアローグがモノローグ化してしまうことももう一つのポイントなんだと思います。
こういう演出をするとき、人が人に背中を向けて台詞を言うという事態が発生するときに何が起こるのかというと、これに似たようなことが成瀬の映画ではしばしば起こるんですね。シナリオ上はおそらく一直線にこう言ったああ言ったという台詞が順番に書いてあるだけだと思うのですが、おそらくその台詞の芝居をメリハリをつけて客に見せるために、緩急をつけて印象的に客に見せていくために、そして台詞を聞いてもらうために、台詞から逆算してああいう動きをつけているのではないかと思うんですね。僕の経験上そうなのではないかという気がするっていうだけなんですけれども。まず台詞を基準にして芝居を、人物の動きを構成していっているのではないかと僕は推測しています。そのときにダイアローグがモノローグと化したり、そのモノローグがまたダイアローグに戻ったりという台詞のメリハリの運動が起こるんですね。
ここで、背中の誘惑というテーマで『鰯雲』の旅館のシーンを観てみようと思います。『鰯雲』をお願いします。
(『鰯雲』の抜粋の上映)
はい、ありがとうございます。女性が、お酒を飲んで酔っぱらってはいるんですが、旅館の窓を開けて、欄干みたいなところにもたれかかるという所からはじめましたよね。非常に色っぽい体勢です。ちなみに、女性は淡島千景で、農家の奥さん役です。子どもはいるけど未亡人ですね。相手役の木村功は新聞記者ですが、奥さんがいます。つまり、不倫の関係が成立した瞬間を描いているんですけれども、あの淡島千景が酔っぱらって旅館の窓の欄干にもたれかかるっていうポーズ無しにはおそらくこのシーンのエロティックな雰囲気はこれほどまでは出てこなかったのではないかと思います。そして、次の、翌朝のシーンがまたシンプルな動きしか作っていないんですが、非常に豊かな表現力をもっています。男が布団に寝ていて、女が鏡台に向かっている。鏡台から女が語りかけると、男が背中を向ける体勢に体を入れ替える。背中と背中を向け合う形になるところから始めるのですが、その後、後悔しているのかどうなのかということを聞きながら淡島千景が接近してきて、木村功が体を起こす。そして、淡島千景がしなだれかかり、体を合わす形になりますが、構図上はふたりの背中が見えるような状態になっています。最後に、淡島千景はだめ押しの恋の告白みたいなものを木村功の背中に向かって語りかけるという構図になっていますね。これ構図を狙ったというよりもああいう芝居を作って自然にそういう構図になったということだと思うんですけれども。それによってあの二人の関係であるとかあの台詞の流れが非常に豊かな情感をもって描かれている。なかなかこれは成瀬以外の人にはできない芸当なんじゃないかと思わせるような、エロティックだし、何か色々な複雑な感情が入り交じっているような重層的な場面になっていますね、あの単純な動きを作っていくというのが実は非常に困難なことなんです。単純に見えますけれども非常に考えられているところです。
これは男女の関係が成立したシーンですけれども、窓辺に立つと必ず成立するとは限らなくて、先ほどの『めし』の後半の方に出てくるんですが、原節子が従兄弟の男性と一緒に旅館に食事に行くシーンがあるんですね、やっぱり原節子がその二階の部屋の窓辺に立って外を眺めているところから始まります。そうすると、その従兄弟の男が原節子と一緒に遊んでいた昔を思い出して、今から箱根に泊まりに行こうなんて原節子を誘惑しはじめるんですね。もちろん原節子は断るんですけれども。女の人が特に二階の窓辺に立って外を眺めたりすると、自動的に男性は女性に惹かれる、女性は意図せずとも男性を誘惑してしまう状況が魔法のように出来上がってしまうのではないかと思うほど、成瀬の映画にはそういうシーンが多いですね。それが全部シナリオに書いてあるのかどうか。あれだけ多いとですね、女の人が男に背中を向けることでその誘惑のシーンをはじめようという演出を、やっぱり成瀬が狙ってやっているとしか思えないのですが。
ここで、今日の『流れる』の話になるのですが、『流れる』は成瀬の映画では比較的背中を見せるシーンは少なかったと思います。けれども、何カ所かでそういうシーンがあるんですね。山田五十鈴が料亭みたいな所でかつて世話になった先生と呼ばれている人物を待っているシーンがありました。山田五十鈴はその料亭の窓辺に立って川などを眺めながら何かいそいそと待っているんですね。それを見ると、当然その先生と山田五十鈴の仲は復活して何か恋愛事件でも起こるのかと思いきや相手はやってこない。だから、山田五十鈴は背中を見せ損ということになるんですけれども。
『流れる』という映画は、つまりそういう男女の関係が成立しないような類の映画なんですね。成瀬の映画にはすでに終わってしまった男女、終わってしまった恋を描く映画というのもままありまして、『流れる』もそうなんですけれども、『晩菊』であるとか『銀座化粧』なんかもそうでしたけれども、それから『浮雲』もそうでしたね。『浮雲』もすでに終わっているはずの男女がそれでもなおかつくっついたり離れたりしながらどんどんどんどん流れていくという特異な展開でしたが、あれも本当は終わってしまっているはずの男女の話だったんですね。『流れる』もそういう系列の映画だと思うんですが、『流れる』ではもうひとり若い女性、高峰秀子が演じた山田五十鈴の娘さんが出てきます。彼女は、お母さんがやっている芸者屋から自立して新しい世界に飛び出そうか迷っているようなキャラクターでしたね。その高峰秀子にもしかしたら恋が芽生えるのではないかと思わせるシーンが設定されていました。仲谷昇が演じるしっかりとした男性、仕事のできる男、あれは山田五十鈴の姉貴分の芸者さんの甥だったかと思いますが、彼ともしかしたら結ばれることによって彼女は新たな世界に飛び出して行くのではないかと思わせる展開になりつつ、そうならなかったシーンをちょっと観てみようと思います。『流れる』をお願いします。
(『流れる』の抜粋の上映)
はい、ありがとうございます。最初のシーンでは、高峰秀子は奥の方でふすまに背をもたせかけて立っていますね。こっちを向くでもなく向こうを向くでもなく横向きに立っているのですが、ああいう演出も成瀬はたまにやりますね。傍観者的な立場にいる女性を描くときに、ああいう姿勢で立たせますね、ふすまに。それはともかくとしてですね、次のシーンで、高峰秀子が仲谷昇に人生相談みたいなことを持ちかけるわけです。それに対して、仲谷昇は二度否定します。そうじゃないんじゃないか、そうじゃないんじゃないかと言って。最初に否定された後、高峰秀子は前に歩いて川縁に向かって仲谷昇に背を向ける形で立ち止まりますね。ところが、仲谷昇はそれに対して更に彼女の前に回り込むようにして、議論を吹っかけます。次に、高峰秀子はまた仲谷昇の前に出て背中を向けるような形になりますけれども、仲谷昇はそれに対しても更に前に回って、正面に回ろうとするような形でまた次の議論を吹きかけるようなことを言うわけです。仕舞には、高峰秀子は堤防みたいな所に座って自分の悩み事みたいな、現在の生活が不安みたいなことをぼそぼそ語るんですけれども、高峰秀子が背中を見せた瞬間に、これは何か恋愛が始まるのではないかというような気配がちょっと漂いますが、それを仲谷昇が全部打ち消していくんですね、前に回って。二度前に回って打ち消しました。最後は、高峰秀子が仕方なく彼に対する相談事を口にするわけなんですが、そのとき仲谷昇は画面の外にいて、高峰秀子が語っていることというのが先ほどの『めし』の原節子とまったく同じ、単なる独り言にされてしまっているんですね。それ以上は何の展開も生まないという、そういう動きがここで演出されていました。単に並んで歩きながらふたりがそういう会話をするのとは違う、背中を見せては男がそれを打ち消すように前に回るという動きをつけることで、このシーンを成瀬は演出しているわけですね。それによってあの彼女の台詞がモノローグ、独り言のようになってしまい、ふたりの関係が雲散霧消してしまうという感じになっています。『流れる』という映画は男女の関係が成立しないような世界を描いている。その世界に相応しい特徴的な演出のひとつなんじゃないかと思われます。
先ほどもちょっと話しましたけれども、すでに終わってしまっている男女、背中という話になると、『浮雲』のラストシーンが思い浮かぶかと思います。ご覧になっていない方もいるかと思いますが、森雅之の後ろ姿、背中のショットで終わりますね。目の前には死んだ高峰秀子が寝ているわけですけれども、それに向かって森雅之が座っている。ちょっとうつむき加減で座っている。背中しか見えない。そして、森雅之がそのまま正面に向かって泣き崩れる。顔は一切映さずにその後ろ姿、背中だけ映しているというとても印象的なシーンです。これも成瀬の背中の演出のひとつだと思うのですが、シナリオを確認したところ、後ろ姿を撮るということは一切書いていなかったですね。森雅之のあの男が項垂れてうちひしがれるであるとか、そういったことは書いてありましたけれども。後ろ姿を見せるとか、後ろ姿で泣き崩れるとか、そういったことは一切書いていなかった。つまり、あれも成瀬の演出なわけですね。その『浮雲』の背中というのがどういうものだったのかということを考える上で、ちょっと『歌行燈』のワンシーンを次に観てみたいと思います。『歌行燈』をお願いします。
(『歌行燈』の抜粋の上映)
はい、ありがとうございます。とっても珍しい回想の仕方ですけれども、後ろ姿が映ってその左上に思っている人の画像が出てくる。しかもその画像がなぜかクレーンアップしていくという、ありえない回想シーンです。要するに背中で回想している感じですね。普通だと、顔を映して顔から回想に入ったりするんですけれども。それから、二重写しにする場合も、顔を映しておいてそこに二重写しみたいなのは、僕もやったことありますし、よく見るんですけれども。珍しいですよね、背中で回想しているという感じで撮るのが。これと似たことを溝口がやっています。『雨月物語』をお願いします。
(『雨月物語』の抜粋の上映)
はい、ありがとうございます。合成するかそれとも生でそのままやるかの違いですけど、思い出すわけですね、背中で。向こうに思っている人が出てくるという演出です。『雨月物語』では特に背中自体が演出的に非常に重要な意味をもっています。この後、森雅之が演じる源十郎という男が幽霊と恋におちるのですが、幽霊ですからもちろん命が危ないということで、通りがかりのお坊さんに君はもうすぐ死ぬ、やめた方がいいよ、なんて声をかけられます。どうしたら良いのでしょうかということで、そのお坊さんに秘法を授けられて、源十郎は幽霊のもとに出かけて行くんですけれども、そうするとですね、幽霊は源十郎がのってこないので、どうしたことだ、もう一回遊びましょうと迫っていって、源十郎の服を脱がします。すると、何と源十郎の背中にはおまじないが書いてあって、その背中がバーンと映るんですね。それでもう猛烈な拒絶をするという映画なんですけれども。
溝口は背中自体になぜか執着していて、無意識だと思うのですけれど、『歌麿をめぐる五人の女』というのを観てみると、花魁の背中に入れ墨の下絵を書くシーンがあるんですね。歌麿がある花魁の背中に非常に執着しまして、惚れまして、いい背中だ、いい背中だと言って下書きを書くんですね。そして、立派な絵が描き上がるんですが、そのとき歌麿がその花魁にですね、この絵は君が悲しいときには泣き、嬉しいときには歌い踊るだろうということを言うんです。つまり、背中の絵がそれほどのものだという台詞を言うシーンがあるんですけれども、成瀬と違って背中に直接的に向かうというか、力を持たせるというか、まとわりつくというか、もうちょっと背中との距離が近い状態で演出するのが溝口の特徴だと思います。この朽木屋敷のシーンでも森雅之と京マチ子が演じた幽霊の女のラヴシーンがあるんですが、成瀬と違って幽霊の女が窓辺に立ったりすることは全然なくてですね、じゃあ幽霊の女が何をするかというとその源十郎の背中にまとわりつくような動きをするんですね。この背中にまとわりつくような動きというのはこの『雨月物語』の幽霊だけじゃなくて、『噂の女』に田中絹代と若い愛人とのちょっとしたラヴシーンみたいなものがあるんですが、そのときも田中絹代がその若い男の背後をですね、回ってみたり、まとわりつくような動きをするんですね。『雨月物語』の幽霊の動きととってもよく似ているんです。
つまり、溝口の場合は、距離をとって背中を見ると言うよりも直接その背中にアプローチしていくというものが多いですね。今日、次に上映する『祗園囃子』の場合も、木暮実千代の芸者のお姉さんとその妹分の若尾文子が出てくるんですが、木暮実千代がその若尾文子の背中を見たりしますね。映画を観ていただくと分かるんですが、背中を眺めたり、背中をさわったりするんですね。それに対して、若尾文子が自分をぜひ芸者の仲間に入れてくれと木暮実千代をかき口説くときに、若尾文子の動きがまた木暮実千代の背中の周りをまとわりつくように動くという演出がなされています。あれは溝口独特の演出ですね。正面に回って何かを訴えるのではなくて、執念深く何かを訴えようとするとき、必ず相手の背後に回って、背中の周りにまとわりつくような動きを演出する。これは溝口が付けている動きです。そういう動きは他にも『折鶴お千』なんかにも出てきますし、それから『夜の女たち』なんて映画にも出てきますし、溝口独特のものだと思います。それから、背中で拒絶するというシーンがですね、溝口の場合は非常に印象的なシーンが多いのですけれど。『夜の女たち』という映画の二つのシーンを続けて観てみてください。すみません、『夜の女たち』をお願いします。
(『夜の女たち』の抜粋の上映)
はい、ありがとうございます。今の二番目のシーンなんかを観るとですね、看板の前にいた田中絹代が横にいた仲間の脇を越えて向こうへ行きますね、背中を見せながら。そして、話しかけてきた人が追っかけてきて、それを通り越して向こうに行くとまた背中を向けて向こうに行くという風に、順繰りに画面の奥の方に移動していくというわけです。これは特別何かを拒絶しているシーンではないですが、田中絹代の心の中の葛藤みたいなものが、ためらいみたいなものが出ているシーンですね。今のシーンを観ていると、もうほとんど神代辰巳の映画に近いセンスですよね。つまり、ヌーヴェルヴァーグ以後な感じがしますね、今のショットを観ていると。『夜の女たち』はネオリアリズモの映画を狙っていたという話ですけれども、ネオリアリズモというよりもヌーヴェルヴァーグ、それから神代辰巳みたいな感じのところまでいっていますよね。そして、その前のあの拒絶が行われるシーンですけど、室内の横移動一発だけで撮っているものですが、男と女が入ってきて最初は縦に、奥に男、手前に女という風に位置して、女が背を向けますね。そして、芝居につれて、女が横の方に移動する。その女の背中を追って男がやってくる。きっかけは女の拒絶の態度ですよね。それによって、女の人を背中を向ける形で動かして、それを男に追っかけさせるという演出になっています。そして、最後のところで、実は妊娠しているとやっぱり背中を向けて告白するわけですね。何か重要なことを、真実なり、何か重要な心情なりを告白するということが、成瀬の場合もそうですけれども、溝口の場合も背中を見せるという演出によってなされる場合が多いです。もう一つ『お遊さま』のシーンを観てみようと思います。男と女のふたりの人物が出てきて、ある重要な告白がなされて、説得がなされて、途中でその男と女の関係性が入れ替わってしまうというようなシーンをワンショットで撮っている、シンプルに見えて、実は人物関係が非常に動いているというワンショットです。『お遊さま』をお願いします。
(『お遊さま』の抜粋の上映)
はい、ありがとうございます。このシーンもおそらく台詞を基準にしてこういう演出を作っていると思います。どの台詞をどういう風に聞かそうか、どういう風に見せようかということですね。先ほどの『流れる』に宮口精二が恐喝に訪れるシーンがあったと思うのですけれど、そのシーンでですね、玄関の上がり框に座った宮口精二が奥から出てきた田中絹代に主人は留守ですと言われると、どうせ居留守だろと言い返すシーンがありましたよね。そのとき、宮口精二がどんなことを言うかと言うと、障子の奥で聞いている居留守なら面と向かって言えないことも言えるからむしろ良いやというようなことを言うんですね。つまり、背を向けて座っている向こうには実はいるんだろ、その人に向かって俺は語りかけているんだぞ、というようなことを宮口精二が言うんですね。これと同じ原理がですね、成瀬と溝口の映画における、人物が人物に背中を向ける場合にはしばしば働いていてですね、先ほども言いましたようにダイアローグがモノローグみたいな働き方をしたり、モノローグのように見えて実はダイアローグなんだという二重性をもったものに台詞が変容していくんですね。
ふたりの演出を、長回しというカメラの側面で観るのもそれはそれで面白いと思うのですが、それよりも台詞というものをふたりはどういう風に考えていたのかという面から、もう一度観直してみるのも楽しかろうと思います。実に表情豊かな台詞のやりとりがなされているはずです。それを音声として音響効果としてちょっと楽しんで観てもらえれば良いのではないかと思います。次に上映する『祗園囃子』という映画でも、背中を向けるシーン、それから背中が何かを語るシーン、背中にまとわりつくシーンがたくさん出てきます。背中で葛藤するシーンがたくさん出てくる映画です。ぜひその背中の表情と、それから人物の台詞ですね、台詞を楽しんで味わって聞いてみてください。ということで、ちょっと長くなりましたけど、ありがとうございました。