鈴木一誌(グラフィック・デザイナー)
■1■サイレント時代劇からの出発
鈴木です。よろしくお願いします。壇上におられる柳沢監督のお姿は観客席から何度か拝見しましたが、気がついたらお亡くなりになっていた。柳沢寿男とはいったい何者なのか、いまだに謎の作家との感じがあります。
柳沢寿男作品を考える際に役立つのが、山形国際ドキュメンタリー映画祭のスタッフが柳沢さんにインタビューしてまとめた「福祉映画づくり、いってこいの関係」という文章です。お配りした資料に転載しておきました(文末にリンクを掲載)。柳沢監督の本を一冊きっちりつくっておくべきでしたが、このインタビューがあって、救われました。聞き手は木村裕子さん。小川プロを山形に呼んだ木村迪夫さんの娘さんです。内容は、山形国際ドキュメンタリー映画祭がそもそも小川紳介監督の尽力でつくられた事情もあって、小川さんについての発言が軸になっています。今日、【 】で囲って引用する柳沢さんの言葉は、すべてこのインタビューに拠ります。
今回は「福祉ドキュメンタリー特集」として柳沢監督の5本の福祉映画が上映されています。日本の福祉がまだ未熟で、ゆりかごのような時期の映像もあって、貴重な機会と思います。揺籃期だったからこそ、福祉の本質が輪郭として見えてくる。現在、福祉に関心が寄せられ、「柳沢寿男イコール福祉映画」との文脈がつくられつつあるのですが、柳沢監督を福祉映画だけの作家としてだけ捉えてよいのだろうか、との疑問をもちます。偉大なドキュメンタリスト、言うならば、土本、小川と並べて考えるべきではないか。
そんなことを思いながら、柳沢監督の経歴を辿ってみます。神戸映画資料館の安井喜雄さんが、柳沢監督はご自身について語ることをあまり好まなかった、とおっしゃっていました。たしかに詳細な経歴を読んだことがない。そういう理由もあって、謎の作家という印象があるのかもしれません。わかる範囲で経歴を掲載(文末に転載)しました。
1916年、群馬県生まれだそうです。インタビューによると、柳沢監督は尊敬する三人の映画作家として、亀井文夫(1908─87)、土本典昭(1928─2008)、小川紳介(1936─92)の名前を挙げています。
【私は日本の監督のなかで3人を非常に尊敬しています。1人は戦前から記録映画を撮りました亀井文夫という監督です。『小林一茶』とか『上海』、『北京』、『戦ふ兵隊』そういう映画を作られた方です。もうひとりは水俣の映画を作られた土本典昭監督。それからもう1人は小川紳介監督。小川君は三里塚から山形まで一連の作品を作ってこられた。】
8歳年上の亀井監督はともかく、土本監督は柳沢さんより12歳下、小川監督にいたっては20歳も下なんですね。ふつう、歳下の作家を尊敬すると言うでしょうか。こんなところも、柳沢監督のおもしろさです。
柳沢監督は、まず松竹下加茂という時代劇の撮影所で、大曽根辰夫、犬塚稔といった監督の助監督として映画人生をスタートさせます。大曽根辰夫さんは、どちらかというとメインではない添え物の時代劇をおもに撮っていて、最後まで松竹の時代劇を守り抜いたひとと言われています。
『映画は陽炎の如く』(草思社、2002年)という本があります。犬塚稔監督が102歳のときに出版した本です。この本が発売されたころ、山根貞男さんが犬塚監督にインタビューするので、琵琶湖のほとりの安曇川まで同行したことがあります。かくしゃくとしたものでした。映画史的に、犬塚稔監督は『稚児の剣法』(1927年)で、俳優・長谷川一夫、当時の林長二郎をデビューさせたことで有名です。この『稚児の剣法』は三人の映画人をデビューさせました。ひとりは、いま言った長谷川一夫、そして犬塚稔監督ご本人。さらに、のちに特撮で有名になる円谷英二を撮影技師として世に出した。大曽根監督や犬塚監督から、柳沢監督はなにを学んだのか。サイレント映画から学んだやり方は多かったのではないかと類推できます。それについては、あとで考えましょう。
さらに経歴を見ていきますと、「1941年に封切られた『小林一茶』(亀井文夫監督)を見て、俳句を記したタイトル一枚での意味がひっくり返る凄さに震撼し、1942年退社して、記録映画を志す」とあります。劇映画から記録映画に転身する。小林一茶の俳句が映った瞬間に、それまで観ていた映像の意味がひっくり返る。このとき、柳沢監督は映像の曖昧さ、映像の意味を確定するのは言葉であることを掴んだのではないでしょうか。映像と言葉は同体ではない。映画というメディアにおいて、映像と言葉は別々の働きをもっているのに気づいた。映像と言葉を一体化させるのではなく、重層させるといいましょうか、そこに記録映画の可能性を感じたのではないでしょうか。
1943年に日本映画社に移り、フィルムなどの物資不足の時勢のなかで、記録映画づくりの基礎を身につけます。これも想像ですけれども、効率を考えて撮るテクニックをここで学んだのではないでしょうか。このことは、のちにみずから資金を集めて限られた条件で映画制作するときに、すごく役立った気がします。小川プロも、今日は何千円あるから何フィート回せるとか、毎日、資金繰りしながら撮影していたそうですね。低予算でも長回しができる、いまのデジタルなカメラ撮影では考えられない。柳沢監督は、1秒が幾らという、身につまされる状況のなかで映画を学んでいった。
日本映画社は戦中はニュース映画をつくっていました。当然、大本営発表と連動していたでしょう。柳沢監督はこうおっしゃっています。
【私は戦時中に日本映画社というところでいろんな作品の助監督をしておりまして、いってみれば戦争に協力したといっていいだろう。】
終戦直後、株式会社になった日本映画社で監督デビューし、『富士山頂観測所』(1948年)『海に生きる』(樺島清一と共同監督、1949年)などを撮りますが、1950年に、人員整理のため解雇されます。企業PR映画が隆盛していた1953年、岩波映画製作所と契約し、『新風土記 北陸』(1953年)『室町美術』(1954年)などさまざまな題材の文化映画を撮ります。このころは、日本が経済的に立ち直りつつあり、企業が宣伝のために、映画というメディアに目をつけた時代でした。
■2■福祉映画への道
これも謎ですが、岩波だけでなく、なぜか日本映画新社、電通映画社、日経映画社などいろいろな会社の仕事をしている。おそらくこの時期、膨大な数の作品を手がけられているのでしょう。柳沢さんのフィルモグラフィの完成が待たれます。60年代に入ると、テレビの登場によって企業PR映画は失墜していきます。柳沢監督も、この時期にPR映画から離れます。
【そのころ神通川の上流に三井鉱山神岡鉱業所というところがありまして、そこのPR映画を作っていました。10ヵ月くらいかかって出来上がった直後に、そこが神通川イタイイタイ病の発生源だとわかりました。神通川イタイイタイ病の発生源の宣伝映画を一生懸命に作っていた。その時に「2度目の過ちを犯したな」と思ったんです。】
これが「2度目の過ち」で、では「1度目」はというと、さきほどの戦争協力です。そこのくだりのすぐ上にはこんなことも書いてあります。
【亀井さんの『小林一茶』という映画を観て、記録映画が面白いやと移ってきたんですが、自分が作りたいような映画はなかなかできない。どういう映画を作ってきたのかといいますと、たとえばサントリーのウイスキーは世界で一番うまいという映画を作れと言われた。作るのはそう難しいことではありません。しかし、内心はサントリーのウイスキーが世界で一番うまいなんて私は思っていません。スコッチが一番と思います。そういう仕事をずうっとやってきました。】
ここから読み取れるのは、テクニックへの自負ですね。「サントリーのウイスキーは世界で一番うまいという映画」をつくるのは簡単だと言う。じっさい、『富士山頂観測所』で朝日文化賞、『海に生きる』で文部大臣賞、『私達の新聞』で新聞協会賞、『新風土記・北陸』で農林大臣賞と、錚々たる受賞歴を誇る作家です。つまり、抜群のテクニックをおもちだった、このことは重要です。このインタビューでは、PR映画に対する絶望として、もうひとつのエピソードが語られています。
【鶴見に日本鋼管というところがございまして銑鉄から造船までやっています。ここの記録映画をやはり1年ほどかかって作りました。門を入りまして左側に消防車が10台くらいあって、右側に大きな小屋がありました。小屋のなかに何があるのかと考えましたけどそこは見せてくれない。撮ってもしょうがないよ、といわれれば、そうですかというよりない。ある日高々とサイレンが鳴り、消防車がすっとんでいき、次の瞬間に小屋があきました。やじ馬ですから見にいったんです。何があったかというと、お棺が積み上げてあった。大工場ですから、安全対策は一生懸命やってますけど事故がどうしてもある。それにしてもお棺を常備しておくとは、企業というのはずいぶん残酷だと思いました。】
企業の論理を知らされる体験が重なり、柳沢監督は60年代なかばに企業PR映画から手を引いて、自力で記録映画を手掛けることになります。
【このようなことがありまして、もう宣伝映画を作るのが嫌になって、岩波映画で最後の1ヵ年間何をもってこられても、全部断ってただで給料貰って過ごしました。そうしますと、来年は契約しないよといわれて、岩波映画をおんでることになったわけです。さて、どうするか。ちょっと困りました。銀座にもいけないし、お金が自由にできなくなる。2、3年とてもしんどい思いをしました。そのころ小川君は三里塚を撮っていました。それから土本は水俣を撮り始めていたんです。】
『夜明け前の子どもたち』を4年あまりかけてつくった、とされています。発表が1968年ですから、逆算すると、63年から64年ころに自主製作に転身したと思われます。東京オリンピックが64年ですから、日本経済の高度成長期であるとともに、経済成長の裏面、歪みが顕在化してくる時期でもあります。その歪みを、やがて小川監督が三里塚で、土本監督が水俣で捉えます。柳沢監督も同じ時期に、経済成長が封印しようとする弱者へ目を向けていく。小川さんの三里塚第一作『日本解放戦線 三里塚の夏』が68年、土本さんのテレビ作品『水俣の子は生きている』が65年、『水俣─患者さんとその世界─』が71年ですから、完全に同期している。この意味からも、土本、小川、柳沢を並べて語るべきと思います。
1968年発表の『夜明け前の子どもたち』以後、『ぼくのなかの夜と朝』(71年)『甘えることは許されない』(75年)『そっちやない、こっちや』(82年)『風とゆききし』(89年)を完成させます。晩年は、看護師をテーマにした新作『ナースキャップ』にとり組んでいて、99年に、83歳の生涯を閉じました。結果的に「福祉五部作」と呼ばれるわけですが、「五部作」で完成ではなく、まだまだ撮りつづけるつもりでした。
■3■手法を超えて
柳沢作品のなかに分けいってみましょう。第一の特徴として、登場人物の〈その後〉がすごく気になる点があります。たとえば『富士山頂観測所』にはたくさんの所員が登場して、吹雪のなかで道具を点検したり観測したりする。あのひとたちはその後、どうなったのか、想像力をかきたててやまない。わたしは制作されてからおよそ50年後に観たわけですから、「あのひとたちは現在どうしているのだろう」と思いを馳せてしまう。東京電力のPR映画『野を越え山を越え』もすばらしい。豪雪地帯では雪の重みで送電線が切れたり、さまざまなトラブルが起こります。その送電線を現地で保守する男性と、その家族を描いています。よくあるPR映画だと、一家が理想化されるものが多いのですが、柳沢作品では、家族のひとりずつが生き生きとしていて、それぞれのその後がすごく気になる。PR映画としては非常に稀です。
柳沢監督の経歴を振り返ってみますと、無声映画時代の時代劇、戦時中のニュース映画、戦後復興期と高度成長期の企業PR映画と文化映画を経て、ドキュメンタリー映画に行き着いた。さまざまなジャンルをまたいできた。では、それらを貫くものはなにか。
最初に「福祉五部作」を観たとき、正直なところ、「なんて下手なんだろう」と思ったんです。今風のドキュメンタリーとは異なって、全然スタイリッシュじゃない。さまざまな手法が入り混じっている。しかし、観たあと、登場人物の〈その後〉がすごく気になる。日常の折々に、ふと「福祉五部作」の人物が思い浮かぶ。ストーリーやエピソードとして想起されるというよりかは、人物の存在感として、浮上してくる感じなんです。これまでにない映画体験でした。
それで、ハッと気づいたんです。柳沢さんは、あえて上手さを捨てたんじゃないか、と。抜群のテクニックをもっていたのを思いだしてください。娯楽時代劇をつくっていたのだから、わかりやすく、流麗につくるのはたやすかったはずなのです。柳沢監督は、多様なジャンルに固有のテクニック、文法を習得してきた。それらすべての手法、文法を携えてドキュメンタリーに立ち向かったのではないか。使える手法は、全部ドキュメンタリーに注ぎこんだ。その結果、単一のスタイルにおさまらない映画作家になった。ひるがえって言えば、描こうとする世界がそれほど手ごわかった。
長回しが多いとかフィックスを好むなど、監督には個性があります。フレデリック・ワイズマン監督の「四無い主義」、つまりインタビュー、ナレーション、字幕、添えられる音楽が無いというのも、ひとつの個性ですね。けれども、柳沢監督の作品にはあらゆるスタイルが同居しているため、個性が特定できない。それゆえに柳沢寿男論は書きにくい。
こういうシーンがたびたび出現します。現場音がオフになって、そこにナレーションや音楽が加わる。現場音は録れているはずなのに、いったん無音にしてしまう。現代のドキュメンタリーではあまりお目にかからない手法です。「福祉シリーズ」第一作『夜明け前の子どもたち』はともかく、1975年の『甘えることは許されない』あたりではもうシンクロ撮影が可能になっていたはずです。にもかかわらず、一貫して現場音をオフにした映像が用いられる。これはサイレント映画の手法なのではないか。無声映画のテクニックを、半世紀をへだてた現代に投入したのではないか。柳沢監督は映画が進化、進歩していくものとは全然思っていなかったように考えられます。
『甘えることは許されない』の脚本は、ポール・ローサ『ドキュメンタリィ映画』の訳者である厚木たかさんです。1935年に出版された『ドキュメンタリィ映画』の原著を、厚木たかさんが翻訳出版するのが1938年です。日本ではまだ「ドキュメンタリー」という言葉、概念が知られておらず、『文化映画論』というタイトルで邦訳されます。日本で「ドキュメンタリー」という言葉が定着するのは1960年くらいです。いまの『文化映画論』が『ドキュメンタリィ映画』と解題されて刊行されるのが60年です。30年くらいかかっている。「ドキュメンタリー」なる概念の変遷を見つづけてきた厚木たかさんを脚本に迎える柳沢作品もまた映画史そのものです。
■4■反復という人間の基本動作
作家とは固有のスタイルをもつものだとすると、柳沢作品は捉えられない。スタイルとしては、まったく禁欲的ではない。ナレーションも音楽も多用します。テレビ番組の多くが、ナレーションや音楽を多用します。ナレーションや音楽で感情を誘導して、ある小さな結論へと導いていく。しかし、柳沢監督の映画が特定のメッセージをもたらすかというと、まったくそうはなりません。
『甘えることは許されない』は、重度身体障害者のための仙台の職業訓練施設「西多賀ワークキャンパス」を舞台にした映画です。女性が、型抜きされた直径5ミリほどのゼンマイをピンセットで取りだし、その中心部の芯を切っていくシーンがあります。たこ焼きをひっくり返すような器用な手付きで、ゼンマイ一個ずつを処理していく。「あまりに単純な作業の反復」とナレーションで説明され、確かにその単調さにショックを受けます。しかし、同時にあまりにも見事な手付きに見入ってしまう。微々たる賃金のために、毎日、人間にこれれほど単純な作業を強いる残酷さを描いているのですが、そのいっぽうで、手わざの精妙さに感動してしまいます。柳沢監督も感動したはずです。この映像には、単純労働を告発するだけではない複雑さが潜んでいる。
同じ『甘えることは許されない』の最後のほうに、小林君という下半身がマヒした青年が登場します。この青年の、毎朝2時間の日課を捉えたシーンは、柳沢監督について話すときに取りあげずにはいられない、日本映画史に残る屈指の名シーンだと思います。小林君はみんなより二時間も早く起きる。なにをするのか、寝間着から作業着に着替えるんです。下半身の自由にならないひとが、誰の助けも借りずに着替えるのが、どれほど大変なことか。まず上半身だけを使って、車椅子からベッドに移る。上半身をベッドの端にひっかけて、それから反動をつけてベッドに移る。そののち、動かない足にズボンを通そうとする。身繕いができるまでに2時間をかける。キャメラは、それをえんえんと捉えます。
このシーンは映画のなかで約20分あります。柳沢監督はこのシーンを撮るのに一週間かかったと言っています。撮影が大変だったのではなく、つい見かねて監督やスタッフが小林君を手伝ってしまったからだそうです。
小林君は、自力で服をきちんと着て、みんなといっしょに朝食をとる。ここに小林君のアイデンティティ、人間の尊厳があるわけです。ここに、「手伝いがあれば5分ですむ作業なのに、彼はひとりで2時間費やす」というナレーションが入ります。柳沢監督は、この映画全体が告発調になっていて自分では観るのが辛い、とコメントしていました。たしかに、ナレーションは、「補助を付けてあげられないのか」との非難ともとれる。ただ、そのいっぽうで、小林君が、汗を流し苦悶の表情を浮かべながら必死でズボンをはく、そのすがたからは生きることの崇高さが立ちのぼってきます。告発と描写が背中合わせに貼りついている。手伝いがないからこそ、小林君は二時間も苦心するのですが、それゆえ、何気ない行為の積み重ねが人間の尊厳を形成していくようすをくっきりと捉えてしまう。柳沢さんは重層する作家だと言うほかない。ナレーションが結論ではなく、かといって映像だけでもない。両者がせめぎあう複雑さ、それが現実だと言っています。
また、柳沢作品では、撮影対象の施設のオーナーが映画の出資者だったりします。おカネを出すから自分のところの施設を撮ってくれ、との構図ですね。そのとき、映画は中立ではあり得ない。逆に、依頼されて撮っているにもかかわらず、施設を告発せざるをえないケースもある。そのような現実の複雑さに向きあわざるを得ないこともまた、柳沢監督の重層性をつくりあげていった、そうも思います。
『そっちやない、こっちや』では、みんなで廃屋を改造して、共同作業所「ポパイノイエ」をつくります。障害の度合いに応じて、それぞれができる作業をします。けれども、障害の重いひとはただ見ているしかない。「ある瞬間を自分たちは撮れなかった」とナレーションが入ります。みんなが仕事を終えてホッとしたときに、ただ眺めているしかなかった重度の障害児もホッとため息をついた、その瞬間です。そして、「なにもできないその子も、眺めることでみんなと共同作業していたのだ」とナレーションがつづきます。柳沢監督の作家性は、撮れなかったシーンについて作品内で言及しつつ、映画によって映画の限界を伝えていく点にもあります。
『僕のなかの夜と朝』に、病とともにある青年が嫌悪感をあらわにキャメラに唾を吐きかけるシーンがあります。衝撃的なシーンですが、ふつうはNGにするのではないでしょうか。映像は決して客観的でも中立的でもない。柳沢監督は、観察者としての限界を露呈させるためにこのシーンを残したのではないか。『風とゆききし』でも、障害者児が咳をしているキャメラマンを注意するシーンがありました。柳沢監督は、映画の限界を明らかにしつつ、かつ作品として成立させようとしました。
同じ『風とゆききし』で、眼帯をした女性が施設の上司を訪ねるシーンがあります。自分の担当を変えてくれといった相談をします。上司は、「まず、その目を治してからにしなさい」と返事をする。そのあと、「われわれが彼女を見たのはこれが最後になった」とのナレーションが入ります。その女性は用水路で水死体で見つかったと。ここでも、キャメラの撮れなかったことが、冷徹に伝えられます。
流れよくつくるのに熟達していたはずの柳沢監督は、わかりやすさを断念し、複雑さ、重層性によって映画の輪郭を描く作家性に行き着いたと言ってもいいでしょう。それは、柳沢監督の性格にもよるのかもしれません。柳沢監督は、自分はすごく臆病だと語っていらっしゃいます。
【僕は憶病ですから機動隊が来るというと逃げるわけです。ご存じかもしれませんが、東京の清水谷公園にみんな集まってデモをやるんです。その時、リーダーの人たちに「僕は機動隊が来たら逃げるよ」と言うと「逃げてもいいよ、でもこの次のデモには出てきなさい」と言うから、「それは約束する、でも機動隊が来たら逃げるよ」と言うわけです。デモが始まり、機動隊が来る。僕は「きた、逃げる!」、「はい、どうぞ」というわけで、とても憶病なんです。】
自分は臆病だとの自覚が、確固たる結論に導く映画をつくらせなかった。しかし、だからこそ、現実の複雑さから目をそらすことがなかった。柳沢作品全体を貫いている基調音は、「人間はそんなに強くない」ということではなかったでしょうか。
■5■リズムの発見
柳沢作品では、ゼンマイの芯切りや小林君がズボンをはく2時間など、繰り返しと反復が多い。単調さを告発すると同時に、手の動きの精妙さや、着替えといった日常的な行為に潜む荘重さに感動させられる。認知心理学者、アフォーダンス理論の佐々木正人さんがこんなことを言っています。脊椎動物、ことに人間は直立して頭を支えています。人間の頭は重く、一本棒の上に重い球体が乗っている状態である人間は、すごく不安定です。歩くときもグラグラしながら歩いている。釘を打つ動作を観測すると、一回として同じ軌跡を描かない。つぎつぎと釘を打っていく行為は反復に見えるが、人間は、毎回、微調整をしながら釘の頭を叩いている。不安定な人間が行う単純作業は、一見して単なる反復でありながら、すごく複雑な認知作用が働いている、そう佐々木さんは言っています。
「同一のことをわずかにちがうこととして行うのが人間行動の原理だ」と。だとすると、単純作業こそが人間の基本動作なのではないか。ピッチャーの投球は反復でしかないが、カーブになったり、アウトコースに逸れたり、そのわずかなちがいが野球というゲームを成り立たせている。サッカーのシュートや相撲の立ち合いもそうですね。毎回、微妙にちがうことが、スポーツのおもしろさを支えている。柳沢監督は、一回しか達成できない凄いことではなくて、単純作業にこそ人間性を見出していた。「福祉五部作」を見ていると、そう思えてなりません。
2011年の秋、東京では猿に関する三本の映画を、ほぼ同時に観ることができました。ひとつは『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』では、遺伝子操作の実験台だった猿が突然、知能を発展させて人間を追い越してしまう。もう一本のソダーバーグの『コンテイジョン』では、新型ウィルスが蔓延して世界が絶滅してしまうかもしれないときに、猿を使った実験でウィルス開発になんとか間にあう。それから、フレデリック・ワイズマンの『霊長類』(1974年)でした。
高野和明さんの『ジェノサイド』という小説も話題になりましたね。ネアンデルタール人や北京原人は、なぜ現世人類と共生しなかったか。この小説によると、現世人類が旧人類を絶滅させた。つまり、いまの人類は大量殺戮をためらわない生き物である。この点が、人類と猿との最大の相違点とされます。
猿と人間のちがいは、文字を書くとかいろいろと言われていますが、わたしは、ひとつはリズムだと思うんです。猿が作業をするときにリズミカルにやるだろうか。そう見えたとしても、人間が勝手にそこにリズムを感じただけじゃないだろうか。単純作業が人間の基本的な動作だとしたら、人間とは、その単純作業の反復にリズムを見いださずにはいられない生き物ではないかと思います。歌謡の発生は労働とともにありました。
先ほどの犬塚稔さんは、戦後はおもに脚本執筆で活躍されました。代表的なものとしては、「座頭市」の原型である『不知火検校』(大映、森一生監督、1960年)、そしてそれにつづく「座頭市シリーズ」ですね。「座頭市」のキャラクターをつくったのは犬塚さんと言ってよいのではないでしょうか。座頭市は、世界を目ではなく音で捉える、音やリズムに敏感な主人公です。先ほどご紹介した犬塚さんの本に、書き下ろしのシナリオ「罰当たり座頭市」が掲載されています。出だしを読んでみましょう。
「竹樋を溢れて滝のように庇を流れ落ちる雨。
吐出す竪桶。
その庇下に雨避けする百姓たちが鋭い稲妻を浴び、魂切れ声をあげて店土間へ雪崩れ込む。
地響き立てて轟き渡る雷鳴。
雨は店土間へ川のように流れ込み、五六人の客たちも怯え顔に息を詰めている。
その向こうの縁台に座頭市が串だんごを銜えたまま雷鳴を聞いている。」
圧倒的な音の世界です。柳沢監督のインタビューに戻りますと、柳沢さんは、第一作を撮る際に、琵琶湖学園のある子どもと仲良くなった。ある日、その子が姿を消した。そして、翌日の夕方に戻ってきた。つぎの日、その子がまた出かけるというので柳沢監督もついて行く。
【じゃあ僕らもいこうかと一緒に行きました。我々は岩波文庫とか小説とか持っていったんですが、彼は何も持っていかない。弁当だけ持っていった。観音様の先に水車小屋があります。水車小屋の前に彼は腰をおろしたんです。12時ころでした。飯も水車小屋を眺めながら、夕方の4時ころまでいる。そのうちに夕方になったからかえろうや、また心配するからね、と言ったんです。「ときにお前な、この水車小屋がなんでおもろいねん」と聞いたんです。水車が回りますから水滴が散ります。彼はその水滴を指さして、「先生なあ、こんなに世の中に美しいものあらへん」と。情けない話なんですが、はたと気がついたんです。太陽が東から西へ移りますから水滴が千変万化する。こんな美しいものあらへんといわれてみると本当にきれいなんです。そうか、この子はこういうことが見られるのか、と思いました。】
日の光が刻々と変化するなか、ポタ、ポタと落ちる水滴を見ている。音ばかりではない、光を含めた世界のリズムを感じていた。犬塚さんが脚本で音の世界を捉えるのと、子どものリズムへの感応を柳沢監督が発見するのには、シンクロしているように思えます。柳沢さんは、煉瓦積み競争の話もします。
【ある1点のところまでいくと、彼は全部煉瓦を崩してしまう。またはじめからやり直す。結局、競技としては負けになるわけです。負けて無念そうな顔をしているから、「せっかく一生懸命積みあげたんだ、積んでいったら勝つやんか」と言ったんです。「先生な、それあかん」と言うんです。「煉瓦というのはきれいに積まなあかんのや、きれいに積むことが大事で、速いことは大事であらへん」と言うんです。そうか、この子にはこういう価値観があるのか、こういう価値観は俺の中にないな、と思いました。】
この「きれい」とは形状のことではなく、動作のことではないか。つまり、この子にとって、煉瓦を積む動作のきれいなリズムが大事なんじゃないか。柳沢監督は、子どもたちのリズムを見つけることがその施設を描くことになる、と考えていた。煉瓦積みの直後につぎのように語っています。近所の川から石を運んできて、学園の裏庭にプールを作ることになった。【土を盛って礎石にして、その上にコンクリートを張りプールを作る】そういう作業です。
【ボランティアが約70人と、重症心身障害児が8、9人ぐらい、保母さん、看護婦さんみんな協力して作ろうとなりました。重症心身障害児にとってはまったく新しい経験です。そういう経験のなかで、働き方が見事だというよりないほど良く働く、すこしずつ子供たちが変わってくる。療育ってこういうことだなと、すこしずつわかってきたということがあります。】
ここで柳沢監督が発見したのは、リズムでしょう。柳澤作品では、ひとびとの、けっして素早いとはいえない仕事ぶりや手わざを写しながら、「そのひとにはそのひと特有のリズムがある」とのナレーションを重ねます。「特有のリズムをもつ者どうしが協働することで全体のリズムが生まれる」とも語られます。集団作業とは、ひとりのリズムが他の人のと共振したり、反発したりすることだと言うのです。
リズムは実在しないという説がありますね。拍子とか拍とかは物理的に計れるけど、リズムは人間の感覚のなかにしかない。人間存在に起こる現象だと。ある種の幻とも言えるかもしれません。ということは、リズムを捉えるのは、人間を描くことにほかならない。柳沢監督は、リズムという、どちらかといえば音的な存在を、映像において表現しようとした。
この点で、柳沢作品はワイズマン作品とすごく似ています。ワイズマン作品は、その場所のリズムを捉えようとしている。病院なら病院の、競馬場なら競馬場の、デパートならデパートのリズムを見出そうとしている。記録された映像と音から、ほぼ一年かけて、その場所固有のリズムを発見しようとする。それが、ワイズマン監督の言う「編集」にほかなりません。リズムを捉えられたとき、組織や施設は、その固有性において表現されたことになります。
柳沢さんは、ナレーションで「特有のリズムをもつ者どうしが協働することで全体のリズムが生まれる」とも語ります。被写体と撮影クルーがとり結ぶ関係も「協働」だと考えたのではないでしょうか。映画づくりのリズムで、写されるひとたちのリズムを抑圧してしまわないように、いわゆる「上手いテクニック」をすべて捨てる。だから一見、流れがふつうの映画とちがって感じる。
障害者の世界をわかろうとするのではない。「わかろう」とすると、障害者の世界を〈健常〉なる遠近法で歪んで描いてしまうことになる。それでは、病者の世界になってしまう。彼ら・彼女たちの世界をそのまま捉えられないか。柳沢監督は、ひたすらその場所のリズムに耳を傾け、作り手のリズムをそこに参加させようとした。共振したり反発したりしながら、被写体は作り手とは、別物でありつづける。別物でありつづけるから、共苦もありうるのです。別物でありつづけるために、撮影の限界を露頭させる。どうしても重層する映画になります。
柳沢作品は、リズムを捉えることで人びとと施設を描き、それゆえ、人物たちのその後が気になる作品になった。観客は、人物とともにリズムを記憶する。記憶されたリズムが想起されるのです。インタビューの末尾には、小川紳介監督作品『1000年刻みの日時計』を観ての、つぎのような言葉があります。
【ここで、小川君が本当に、「過去を語り、現在を語りながら、それをばねにして未来を切り開く」そういうものをつかんだなという感じがするんです。】
これは、小川監督についての言葉であると同時に、柳沢監督がご自身の作品でやろうとしたことだと思います。それを結論として、今日のお話を終わります。ありがとうございました。
「福祉映画づくり、いってこいの関係 柳澤壽男」
(山形国際ドキュメンタリー映画祭ウェブサイト内)
http://www.yidff.jp/docbox/13/box13-5.html
{略歴}
柳沢寿男
やなぎさわ・ひさお
1916(大正5)年、群馬県佐波郡玉村町飯塚生まれ。
1936年ころ、大曽根辰夫監督の紹介で、松竹下加茂撮影所に入り、チャンバラ映画の助監督を務める。いちばん多く付いたのが、犬塚稔監督の長谷川一夫ものだったという。『安木ばやし』(40年)を監督するが、1941年に封切られた『小林一茶』(亀井文夫監督)を見て、俳句を記したタイトル一枚での意味がひっくり返る凄さに震撼し、1942年退社して、記録映画を志す。1943年、日本映画社に移り、フィルムが不足する時勢のなかで、記録映画づくりの基礎を身につける。終戦直後、株式会社となった日本映画社で監督デビューし、『富士山頂観測所』『海に生きる』(49年、樺島清一と共同監督)などを撮る。50年、人員整理のため解雇される。おりしも企業PR映画が隆盛する時代の53年、岩波映画製作所と契約し、『新風土記 北陸』(53年)をはじめ、『室町美術』(54年)など、さまざまな題材の文化映画をつくる。並行して、日本映画新社、電通映画社、日経映画社の作品も手がける。60年代なかば、公害をもたらしもする企業PRへの疑問から、岩波との契約を辞し、自主制作の道を模索する。4年有余の時間をかけて68年に『夜明け前の子どもたち』、つづいて『ぼくのなかの夜と朝』(71年)、『甘えることは許されない』(75年)、『そっちやない、こっちや』(82年)、『風とゆききし』(89年)を、上映活動を行いつつ、完成させる。晩年は、看護師をテーマにした新作『ナースキャップ』に取り組んでいたが、99年に、83歳の生涯を閉じた。
{柳沢寿男のおもなフィルモグラフィ}
(山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された作品を中心に)
炭坑[1947]
東京裁判第三集真珠湾奇襲[1947]
若い村[1948]
富士山頂観測所[1948、朝日文化賞]
飛騨のかな山[1949]
海に生きる 遠洋底曳漁船の記録[樺島清一と共同監督、1949、文部大臣賞]
私達の新聞[1951、新聞協会賞]
わがふるさとの町[1952]
新風土記・北陸[1953、農林大臣賞]
室町美術[1954]
野を越え山を越え[1955]
何処かで春が[1958]
小さな町の小さな物語[1960]
ロダン[1962]
東レパイレン[1963]
夜明け前の子どもたち[1968]
ぼくのなかの夜と朝[1971、全国福祉協議会推薦]
甘えることは許されない[1975]
そっちやない、こっちや[1982年、山路ふみ子文化財団福祉映画賞]
風とゆききし[1989、日本映画ペンクラブ推薦優秀作品]