吉田広明(映画批評家)
フィルム・ノワールが西部劇に何らかの影響を与えたのではないか、というテーマでお話させていただきます。発想の源は、フランスの映画批評家アンドレ・バザンによる「西部劇の進化」という「カイエ・デュ・シネマ」の55年12月号に発表された論文です。バザンはその論文で、「第二次大戦以前に西部劇はある程度ジャンルとして確立した」と述べています。西部の神話、西部の歴史、アメリカの歴史と人物の心理描写の均衡がうまく確立したことで、西部劇は40年前後に完成した。その具体的な例として、ジョン・フォードの『駅馬車』(39)、キング・ヴィダーの『北西への道』(40)、ウィリアム・ワイラーの『西部の男』(40)などを挙げています。それらの作品に対して、新しい傾向の西部劇が現れているのではないか、とバザンはこの55年の論文で述べています。そして、そのような西部劇を古典的な西部劇に対して「超西部劇 Surwestern」と呼び、これまでの西部劇にはなかった要素を取り込んでいることに注目します。例えば、そういった要素として、キング・ヴィダーの『白昼の決闘』(46)とか、ハワード・ヒューズの『ならず者』(43)における「エロティシズム」を挙げています。そして、ジョージ・スティーヴンスの『シェーン』(53)のような、どこからともなくやってきて、困っている人を助けて、去っていくヒーローに見ることができる「神話性」。また、当時はマッカーシズムの時代ですが、フレッド・ジンネマンの『真昼の決闘』(52)などの「社会性」にも着目しています。
このように、いろいろな要素から「超西部劇」を定義しようとするのですが、要するに、バザンは古典的な西部劇に存在した均衡が破れていると言っているんですね。彼は戦争の影響も指摘しています。戦争によるアメリカ社会の心理的な負荷が、ある年代からの西部劇に反映されているのではないか、というわけです。
この「超西部劇」をどう定義するか、バザンは少し迷ってもいるようですが、逆に「超西部劇」に属さない作家として、『赤い河』(48)や『果てしなき蒼空』(52)のハワード・ホークスを挙げています。そして、「超西部劇」の代表的な作家としては、ラオール・ウォルシュを挙げている。『追跡』(47)、『死の谷』(49)、『死の砂塵』(51)。『死の砂塵』は、日本では初公開以降なかなか見る機会がないのですが、フランスでDVDが発売されています。リンチを題材にした、かなり面白い映画です。ともあれ、バザンによると、「超西部劇」とは、製作年度を知らなくても、そこに含まれた「何か」によって40年代後半から50年代に撮られたことがすぐ分かる作品である。そのバザンが言う「何か」とはノワールではないか、というのが僕の考えです。当時、フィルム・ノワールという言葉はそれほど人口に膾炙していませんでしたが、今考えると、「超西部劇」とは「フィルム・ノワール的西部劇」のことではないのだろうか。彼はこの論文で「バロック的」という言葉を使用しています。この「バロック的」という形容はフィルム・ノワールの特徴、性質を説明するときによく使われる言葉であるわけです。
ラオール・ウォルシュのようなベテランではなく若い監督で「超西部劇」を撮っているのは誰か、ということで名前が挙っているのがアンソニー・マンです。そのほか、ニコラス・レイの『大砂塵』(54)や今日ご覧いただいたエドワード・ドミトリクの『折れた槍』(54)など、まさにフィルム・ノワール寄りな作品群が言及されている。「B級ノワール論」で書きましたように、フィルム・ノワールは40年代から作られはじめて、50年代末になるとほとんど普遍化してくる。つまり、フィルム・ノワール的な世界観が映画として当たり前になってくる。アンソニー・マンが典型ですが、B級映画を撮っていた人が50年代になるとA級の西部劇を撮りはじめる。それによって、ノワール的な世界観が西部劇に移植されたのだろうと思います。
また、50年代には、多くのフィルム・ノワールが西部劇としてリメイクされています。例えば、ラオール・ウォルシュの『ハイ・シエラ』(41)が、西部劇『死の谷』にリメイクされる。ジョセフ・L・マンキーウィッツの『他人の家』(49)が今日ご覧いただいた『折れた槍』にリメイクされる。最近、日本でDVD化されたデルマー・デイヴスの『去り行く男』(56)という映画があります。流れ者のグレン・フォードがある牧場にやって来る。この牧場の経営者がアーネスト・ボーグナインで、彼には若くてきれいな奥さんがいる。この奥さんはどうしても夫のことを好きになれず、流れ者と浮気をする。この筋で分かるように、『去り行く男』はテイ・ガーネットの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(46)のリメイクです。それから、ジョン・ヒューストンの『アスファルト・ジャングル』(50)もデルマー・デイヴスの『悪人の土地』(58)としてリメイクされています。
このように、40年代のフィルム・ノワールが50年代に西部劇としてリメイクされた例はたくさんあります。そして、調べてみると、いくつかの名前が、フィルム・ノワールと西部劇の双方に関わっていることに気づきます。当然、何人かの映画監督の名前が思い浮かびますが、脚本家でも、例えば、W・R・バーネットという人がいます。ウィリアム・ライリー・バーネットはもともと小説家で、映画の脚本も手がけるようになった人です。マーヴィン・ルロイの『犯罪王リコ』(30)の原作、それから、これもノワール的な西部劇であるラオール・ウォルシュの『暗黒の命令』(39)の原作、そして『ハイ・シエラ』の原作と脚本、また、フランク・タトルの『拳銃貸します』(42)の脚本を赤狩りの被害者であるアルバート・マルツと一緒に書いています。それから、『ハイ・シエラ』のリメイクである『死の谷』、『アスファルト・ジャングル』の原作など、ノワール、西部劇の両方に関わっている。この人の物語には悪人がよく登場しますが、人間的な魅力をもって描かれることが多く、このことがフィルム・ノワールの善悪の曖昧さにも繋がっています。
それから、ニヴン・ブッシュという脚本家もいます。ウィリアム・ワイラーの『西部の男』、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の脚本、『白昼の決闘』の原作、『追跡』の脚本、そしてアンソニー・マンの『復讐の荒野』(50)の原作などですね。典型的なフィルム・ノワールは『郵便配達は二度ベルを鳴らす』くらいですが、ノワール的な色彩を帯びた西部劇をたくさん書いている。この人が得意なのは家庭内の葛藤、確執を描くことで、女性がドラマの中心にいることが多いですね。
そして、脚本家としては、当然、フィリップ・ヨーダンの名前を挙げておくべきでしょう。ほぼ処女作にあたるマックス・ノセックの『犯罪王ディリンジャー』(45)から、アンソニー・マンの『秘密指令(恐怖時代)』(49)、『折れた槍』のオリジナルである『他人の家』、ウィリアム・ワイラーの『探偵物語』(51)、『大砂塵』、ジョセフ・H・ルイスの『ビッグ・コンボ』(55)、アンソニー・マンの『ララミーから来た男』(55)、『シャロン砦』(55)、マーク・ロブソンの『殴られる男』(56)、それから「マクベス」の翻案で舞台を現代の犯罪組織に置き換えたケン・ヒューズの『次はお前だ』(55)、ヘンリー・キングの『無頼の群』(58)、アンドレ・ド・トスの『無法の拳銃』(59)など。フィルム・ノワール、西部劇のどちらもたくさん書いている人ですが、どこか陰気で薄暗い雰囲気の映画が多いですね。まあ、実際にこれらのすべての作品をヨーダンが書いたのかどうかは定かではないのですが、こうしてクレジットされた作品を並べてみると、まさにフィルム・ノワールと西部劇を繋いだ人のように思えます。
このように、フィルム・ノワールと西部劇は先ず人脈的に繋がっている。フィルム・ノワールと西部劇の両方に関わった監督としては、フライシャーだとかマンだとか、ジョセフ・H・ルイスとかニコラス・レイとかアルドリッチとかいくらでもいるわけで、つまり、フィルム・ノワールと「超西部劇」は同じ人たちが作ったと断言しても良いのではないでしょうか。
では、これからは、フィルム・ノワールが西部劇に与えたであろう影響について考えていきます。フィルム・ノワールは物語よりもスタイルで見せていく印象が強いですが、「超西部劇」は、映像よりも物語、テーマの面で、フィルム・ノワールの影響を強く受けている気がします。フィルム・ノワールから「超西部劇」に移植されたテーマのひとつに、バザンも似た指摘をしていますが、「女性性」があると思います。ファム・ファタールが西部劇に登場するようになる。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のリメイクである『去り行く男』とか、ひとりの女性をめぐってふたりの兄弟が争う『白昼の決闘』がそうですね。それから、バーバラ・スタンウィックが主演した『復讐の荒野』やサミュエル・フラーの『四十挺の拳銃』(57)もこの例として挙げられます。ほかには、アンドレ・ト・トスがヴェロニカ・レイク主演で『復讐の二連銃』(47)という作品を撮っていています。ヴェロニカ・レイクがふたりの男を手玉にとる映画です。ファム・ファタールとはちょっと言い難いのですが、『大砂塵』は女同士の争いを描いた、完全に女の西部劇です。
女性が前面に出て、撃ち合ったり、男を戦わせたりすることは古典的な西部劇ではありえない状況で、これはフィルム・ノワールのファム・ファタールが移植された結果ではないかと考えています。男性上位の西部の社会を舞台にしているだけに、かえって倒錯的な雰囲気が強く漂う。フィルム・ノワールよりも「超西部劇」の方が、女性像がより倒錯的な印象があります。
また、フィルム・ノワールが西部劇に与えた影響として、精神分析的な要素があると思います。『暗黒の命令』はマザコンの男が主人公だったりする。それから、『追跡』は、父親が殺されたときの光景、拳銃の火花に取り憑かれた男の物語です。『死の砂塵』では、カーク・ダグラスが演じる保安官が、ウォルター・ブレナン演じる犯罪者を、リンチと吊るし首から守りつつ裁判所まで移送する。この保安官には、父親がリンチで殺されたトラウマがあります。ウォルシュは何かのトラウマを負っている人物をよく描きますね。アンソニー・マンの映画でも、トラウマに囚われた人物がよく登場します。
トラウマの原因はたいてい幼少期の出来事や家庭環境にあるわけで、今日ご覧いただいた『折れた槍』にもそういう一面がありました。オリジナルの『他人の家』には原作があるようですが、脚本はフィリップ・ヨーダンが書いている。『折れた槍』では、ヨーダンは原案となっていて、リチャード・マーフィーという人が脚本を書いています。設定はまるでシェイクスピアの「リア王」です。家父長的な父親がいて、子どもが何人かいるけれども、お気に入りはひとりだけ。父親とお気に入りの子どもに、ほかの子どもたちが敵対する。ヨーダンは『次はお前だ』という「マクベス」を翻案した脚本も書いているわけですから、『他人の家』には原作があるとは言え、シェイクスピアをパクッたと言うか、換骨奪胎したのではないか。上島春彦さんの「レッドパージ・ハリウッド」によると、ヨーダンは人のアイデアをパクッたり、焼き直したり、楽をすることの上手い、要領の良い人だったらしい。
それはさておき、この『折れた槍』という映画のポイントは、創業者や初代の物語ではなく、その次の世代への移行の物語であることではないでしょうか。『他人の家』の方はイタリア系の一家の物語で、エドワード・G・ロビンソンが一代で築いた銀行に跡継ぎがいないという話。その銀行が大変ずさんな個人経営だったので、不仲の長男とかが裁判に持ちこんで、エドワード・G・ロビンソンを経営から引きずり下ろす。『折れた槍』の場合は、牧畜で財を成したスペンサー・トレイシーが、排水が原因で、銅山の経営者と諍いを起こし、裁判にかけられる。スペンサー・トレイシーは牧場主で、第一次産業の人間ですね。対立する銅鉱山は第二次産業に属している。スペンサー・トレイシーと反りの合わない息子のひとりであるリチャード・ウィドマークは父親の土地を石油会社に売ろうとします。『他人の家』と『折れた槍』は、共に初代から二代目への権力の移行の物語でありますが、『折れた槍』では、それに加えて第一次産業から第二次産業へのシフトも示唆されているところが、西部の歴史の上で重要な意味を持ってきます。
しかし、この二作においてより重要な要素は裁判だと思います。ただ、『他人の家』でイタリア系の銀行家がずさんな経営により裁判にかけられることと、『折れた槍』における、西部で一からたたきあげて自分の王国を作った男が裁判にかけられることは、少し意味合いが異なるはずです。後者の、自分こそが法律であり、撃ち合いも辞さない男が裁かれるのは、西部の歴史が裁かれるのとほとんど同等の深刻さを秘めています。この「法」というテーマについては、後ほど改めてお話します。
ここで少し参考映像をご覧いただきます。これも家族を描いた西部劇です。先ほど「超西部劇」には、ノワール的な映像スタイルはあまり見られないと言いましたが、この西部劇には少しそういうスタイルがありますので、ご覧ください。先に物語をご説明しますと、人里離れた雪山に農場の一家があって、強権的なお母さんが家族を束ねている。夫はアル中で、息子が三人いる。長男は詩集を読んだりする芸術家肌で、母親から馬鹿にされている。ロバート・ミッチャムが次男を演じているのですが、今からご覧いただくシーンには登場しません。ただ、この次男が母親に一番似て、気性が激しい。猟も上手い。三男には恋人がいて、その彼女はすでにこの家で暮らしています。それからもうひとり、妹もいます。テレサ・ライトが陰気な黒づくめの服装で、きつい感じで演じている。母親が強権的なためか、一家全体が何か打ちひしがれているような雰囲気ですが、次男のロバート・ミッチャムだけが母親に抵抗している。と言うか、母親と次男は同じ類いの人間なんですね。そういう設定です。次男は牛を襲うピューマを退治するために外出している。このピューマに殺された長男の遺体が家に戻ってくる場面を今から見ていただきます。空間の演出にご注目ください。映画のタイトルはまだ言わないでおきます。
(ある作品の抜粋二つの上映)
今、ご覧いただいたシーンの前のシーンで、三男と恋人が納屋かどこかでキスをして、母親がそのことを責める。母親がいる広間から一段、二段上がった右手に出口があって、その左手に階段があるという空間。その三方に人が配され、階段の下の広間に母親がいて、階段の上に父親とテレサ・ライトがいて、出口のあたりに三男とその恋人がいる。人間関係がその配置に表れていて、そこに高低差もつけられている。二番目のシーンは長男が埋葬されている場面ですけれども、墓の中からの仰角で撮られていて、ちょっとやり過ぎな感じもしますね。
この映画は『Track of the Cat』(54)という作品で、監督はウィリアム・ウェルマン。日本では未公開でテレビ放映のみ。『血ぬられし爪あと/影なき殺人ピューマ』という西部劇とは思えないホラー映画みたいなタイトルで放映されました。ベッドの頭部の板が画面のかなりの部分を黒く塞いでいるシーンがあったり、フィルム・ノワール的な、映像のスタイルが突出した感じが面白かったのでご覧いただきました。ウィリアム・ウェルマンというスタンダードな演出をする映画監督すら、こういう映像の作品を作った。シナリオがニコラス・レイの『危険な場所で』(51)を書いたA・I・ベセリデスなので、この人の影響かもしれません。ちなみに、カメラは、ジョン・フォードの『リバティ・バランスを射った男』(62)や『ドノバン珊瑚礁』(63)を撮ったウィリアム・クローシア。フィルム・ノワールをたくさん撮った人ではなく、どうもジョン・ウェインに気に入られていたらしく、ジョン・ウェインの映画をたくさん撮っています。
『Track of the Cat』と同様、家の空間を利用して人間関係の葛藤を描いた映画ということで、フィルム・ノワールではないのですが、フィルム・ノワールもいくつか撮った監督のある作品の抜粋を次にご覧いただこうと思います。
(ある作品の抜粋の上映)
お分かりのとおり、ニコラス・レイの『理由なき反抗』(55)です。階段を使ったこのシーンを選んでみました。強権的なお母さんがいて、お父さんが尻に敷かれているところも似ていますね。
家庭を舞台にした家族の確執というテーマは、フィルム・ノワールから「超西部劇」に移植された要素のひとつだと思いますが、あと、赤狩りやマッカーシズムの影響もこの双方のジャンルに見て取れます。マッカーシズムを真正面から取り上げたフィルム・ノワールはないのですが、赤狩りの被害者やその身近にいた人がこのジャンルにはたくさん関わっていたためか、社会の閉塞的な雰囲気が描かれていることが多い。「超西部劇」も50年代の閉塞感を映画にうまく取り込んでいて、このふたつのジャンルの社会観は共通するところがかなりあるような気がします。ただ、西部劇の場合は、当時の社会を舞台にしているわけではないので、集団ヒステリー的な社会をより直接的に描けたのではないかと思います。集団の恐怖を描いたフィルム・ノワールにはドン・シーゲルの『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(56)やフィル・カールソンの『無警察地帯』(55)といった作品もありますが、その点は西部劇の方が有利だったのではないか。『大砂塵』や『真昼の決闘』などはこのテーマをうまく描いていると思います。
『必殺の一弾』(56)というちょっと変な西部劇もあります。原題は『The Fastest Gun Alive』。ラッセル・ラウズという監督の作品です。練習熱心で早撃ちの名手だけど、人を撃ったことがない男をグレン・フォードが演じています。グレン・フォードの噂を聞いたブロデリック・クロフォード演じるアウトローが彼に対戦を挑み、大変なことになる映画です。町の住民たちは、はじめはグレン・フォードを西部一の凄腕ともてはやすのですが、やがて、彼の噂が広がったらアウトローが町にどんどんやって来て大変なことになる、と手のひらを返し、彼を疫病神扱いしはじめます。まさに赤狩りの時代の集団性を反映している感じです。
フィルム・ノワールには、個人だけでなく社会が間違っているという視点があると思います。悪いのは資本主義だ、とかそういう感じです。「超西部劇」にも同じような視点があると思います。アメリカの社会は間違っているのではないか、という疑いが根底にある。つまり、それはアメリカの法に対する疑念です。
アメリカの法は、アメリカの歴史におけるリンチ、自警団思想と大きく関わっています。西部はもともと無法地帯だったわけで、ロイ・ビーンのような力のある個人が法を布くほかありませんでした。そういう人たちが、俺が法だ、俺に従え、と言ってルールを作る。従わない人はリンチにかける。そういう自警団思想という考え方に対して、疑いが生じてきたのが50年代であり、その疑いを西部劇に世界に持込んだのはフィルム・ノワールではないかと考えています。
リンチ西部劇とでも言うべき西部劇があります。ウィリアム・ウェルマンの『牛泥棒』(43)とか『大砂塵』、ジョセフ・H・ルイスの『ハリディの烙印』(57)といった作品です。無法地帯ですからルールは個人的な、自分のさじ加減ひとつの正義であって、自分が気に入らない人間は排除してしまえばいい。西部開拓時代であればそれも許されたかもしれない。しかし、次の世代、二代目、三代目の世代の社会にそれが通用するのか。そのようなアメリカ的な正義は維持できないのではないか、という疑い、自己不信が50年代の西部劇にはある。リンチのシーンはありませんが、ジョン・フォードの『捜索者』(56)にしても、インディアンを排除してしまってよいのだろうか、という躊躇、苦さがある。
先ほどヨーダンの脚本作品としてご紹介しましたが、『無法の群』という西部劇があります。妻がレイプされて、殺されて、その犯人の四人の男を探して復讐するんですが、まったくの人違いだったことが後で分かる。自らの大義が揺らぐ、と言うか失われる映画です。自分のやってきたことに対する不信感。それは、自分も悪だし、社会も悪ではないか、というフィルム・ノワールの視点に通じます。その視点が西部劇に持込まれることで、登場人物の造形に深みが与えられた。しかし、その一方で、西部劇的な世界観に不信が植え付けられた。それは、井戸に毒が投げ込まれたようなことであって、極端なことを言えば、それによって西部劇が死んでしまったという気もするんです。
50年代以降も西部劇は作られますが、それ以前の西部劇とはまったく異なっていると思います。「60年代アメリカ映画」という本で、上島春彦さんが「西部劇の変質」という論文をお書きになっています。上島さんは、60年代に西部劇が変わった、と仰っていて、その兆候を示す三つのポイントとして、アンチヒーロー、集団性、地域性を挙げています。ただ、アンチヒーローについては、50年代からすでにそうかもしれない。フィルム・ノワールの要素を取り込んだ「超西部劇」はアンチヒーローしか描いていない。そう言っても良いかと思います。
60年代以降の代表的な西部劇監督としては、サム・ペキンパーとバート・ケネディの名前が挙げられるかと思いますが、ペキンパーは西部劇よりもアクション映画にこだわりがあるようで、後期の作品はほとんどニューシネマのようでもある。バート・ケネディは西部劇神話のパロディをねらっているような、遊戯的な作品を作っている。それらはもはや西部劇ではないのではないか。そういう気がしないでもありません。50年代に西部劇は一度、死んだ。そして、殺したのはフィルム・ノワールである。この講演を構想していた当初は、フィルム・ノワールが、西部劇に人間的深みを与えたということで、西部劇を復活させたイメージをもっていたのですが、いろいろと考えるうちに、フィルム・ノワールが西部劇を殺したと言う方が正確ではないか、という気がしてきました。アンドレ・バザンの「超西部劇」は、西部劇の再生であり、そして死でもあるのだろう、と。
その「西部劇の終わり」に意識的だったのがクリント・イーストウッドです。彼の西部劇にはふたつの極がある。ひとつは「神話性」。西部劇的なヒーローというイメージがあり、そしてそれはほとんど形骸化している。これが『ペイルライダー』(85)などですね。一方で、「社会性」。自警団思想の正当性を巡って、社会の倫理をかなり突き詰めたのが『許されざる者』(92)だと思います。イーストウッドの西部劇とは、端的にいって『シェーン』と『牛泥棒』のリメイクなのではないだろうか。彼は「西部劇の終わり」をなぞっているだけなのかもしれない。しかし、このことは、もう少し考えてみたいと思います。
今日のお話は以上です。ありがとうございました。