岸野雄一(スタディスト)
よろしくお願いいたします。今、観ていただきました『サラリーマン目白三平 亭主のためいきの巻』ですが、私はだいぶ前に浅草東宝のオールナイトで観まして、その独特な質感に非常に感銘を受けました。鈴木英夫監督は1995年ぐらいから再評価の機運が高まっているということですけれども、そのぐらいの時期からちょっと注意をして鈴木監督の作品を観るようになりました。
『サラリーマン目白三平 亭主のためいきの巻』のファーストシーンは、雨が降るなかの出勤ですよね。バックで流れる叙情的な音楽にかなり魅せられまして、クレジットされている音楽の宅孝二とはいったい何者だと。この宅孝二さんをそれ以降気にかけてちょっと追いかけてみた次第です。そうしたら色んなことが分かってきました。まず個人的に大きなこととして、私の通っていた小学校の校歌を作った人なんですね。宅さんは生涯でさほど校歌は手がけられていないのですが、ちょっと宿命的な再会に似た感慨がありました。刷り込まれているといっても過言ではない出会い方をしていたわけです。
先々週、アテネ・フランセ文化センターで「音楽家が解読する映画音楽 5夜」という特集を行いまして、音楽家をゲストに招いて色々と話をうかがいました。二日目のゲストだった菊地成孔さんと一緒に活動していらっしゃる南博さんというピアニストの方が、宅孝二さんに音楽を習っていた時期があるというので、イベントの後、菊地と一緒に南さんに会いに行きまして、飯を食いながら、宅孝二さんの話をうかがってきました。
これが非常に面白い人でして、堺市のかなりのボンボンとして1904年にお生まれになったようです。戦前のパリに留学しまして、ナディア・ブーランジェという音楽の非常に有名な先生の指導を受けています。ナディア・ブーランジェに師事していたミュージシャンは、ピアソラであるとか、ミシェル・ルグランであるとか、ジスモンチであるとか。とにかく素晴らしい音楽家を輩出しているわけですね。そのなかで、この宅孝二さんも音楽を習っていたということです。戦前のパリですから、当時の本物の芸術というものを目の当たりにしたんだと思いますね。日本に帰ってきてからは厭世観と申しますか、かなりやる気がなくなってしまい、何をやっても嘘っぽくみえてしまう感じだったようです。
本当に面白い逸話が、宅孝二さんには幾つもあるんです。東京オリンピックの体操の音楽担当になりまして、そこで動きというものにいかに音楽をつけるかということを色々と研究なさったようです。そのことから、創作ダンスみたいなものの音源も少しは残されています。音楽教育の方にも熱心で、東京芸大のピアノ科の主任講師まで務めていらっしゃったんですね。だけれども、50歳のときに突然その職を辞めまして、これからはジャズだと思ったらしくて、浦和のキャバレーでピアニストとして再出発するんですね。それで、自分よりも遥かに歳下の渡辺貞夫さんのジャズスクールに通いはじめたり、本当に何と言うか、プライドがあるんだか無いんだかという感じの人だったようです。あと、野口整体というのがありますよね。野口整体の野口晴哉さんが整体に音楽を色々と取り入れているんですけれども、そのきっかけとなったのが宅孝二さんらしいですね。野口晴哉さんが宅孝二さんの演奏しているピアノを聞いて、音楽にはすごい力があるんだと思って、音楽を取り入れるきっかけとなったということですね。また、永井荷風さんとも親交があったんですね。戦争のときに永井荷風さんが疎開していたのが宅孝二さんの家だったようです。
それでは、宅孝二さんが音楽を手がけられている映画をちょっと幾つか観てみようと思うんですけれども。『美男をめぐる十人の女』『私は嘘を申しません』、そして『続社長三代記』。この三本のクレジットタイトルの部分をちょっと観ていただきたいと思います。
(『美男をめぐる十人の女』『私は嘘を申しません』『続社長三代記』の抜粋の上映)
はい、じゃあ止めてください。ありがとうございます。宅孝二さんは『社長三代記』等の「社長シリーズ」の松林宗恵監督と組むことが多かったですね。あと、二番目に上映した『私は嘘を申しません』の斉藤寅次郎監督の作品も多く手がけていらっしゃいます。一本目の『美男をめぐる十人の女』ではああいう実験的なことをやっていたり、ともかくかなり面白い試みをしている人だというのはうかがい知れたかと思います。その後の「社長シリーズ」の音楽は神津義行さんとか山本直純さんが数多く手がけられていますけど、そのアレンジの雛形を作ったと言えるのではないかと思います。
今日の二本目に上映した『サラリーマン目白三平 女房の顔の巻』では、「黒い花びら」が頻繁に歌われていましたね。この映画の製作時は中村八大さんが登場された頃で、やっぱりセンセーショナルだったんだと思います。メロディーラインは日本的な演歌調でありながら、ピアノの3連の刻みなどアレンジが非常に洋楽化されていますね。この「目白三平シリーズ」の音楽にも、ちょっとそうしたテイストを感じられたかと思います。ポップスの領域ですが、それまではひたすら洋楽を真似するか、スタイルを何とか自分たちのものにすることで精一杯だったのが、中村八大さんぐらいからは、余裕をもって、じゃあ日本人がやるんだったらどうだ、という考えで音楽を作れるようになっていったわけですね。宅孝二さんも「目白三平シリーズ」におきましては、そういう試みをしているのではないかと思います。日本的な叙情の旋律でありながらアレンジメントは洋楽であるということですね。
ただ、宅孝二さんは、鈴木英夫監督の作品の音楽はこの「目白三平シリーズ」しか手がけられておりません。ふたりの相性としてはですね、そんなに良いとは思えないんですね。鈴木作品で言えば、やはり佐藤勝さんや池野成さんは非常にマッチングが良いと思います。サスペンスやスリラーの構築を、音楽が並走する形でうまく支えていたと思います。この「目白三平シリーズ」、何にせよ難しいですよね。ホームドラマと言っても良いジャンルだと思います。ホームドラマを支える劇伴。これは実は難しいんです。劇伴、アンダースコアというのは、描かれている映画のファンタジーのレベルに応じて劇的であるかどうかを決めていくわけですが、ホームドラマはファンタジーが現実に近いものとして想定されていますから、劇的ではない別の力でドラマを支えなくてはいけない。非常に難しいジャンルだと言えます。その「目白三平シリーズ」において、宅孝二さんは叙情的なんですけど、どこかしらモダンでクールな形でドラマを支えるということを試みられていましたね。単なるテレビ的なホームドラマではない人間関係の機微のサスペンスとでもいいましょうか。それをうまくバックグラウンドで支えていたと思います。
宅孝二さんとマッチングが良い監督と言いますと、やはり市川崑監督だと思います。市川崑監督だと『処刑の部屋』『満員電車』などの音楽を手がけられています。両作品ともクレジットタイトルの部分に音楽がかからないという非常に斬新なつくりをしていますね。クレジットタイトルが映っている間は音楽は鳴らずにバッググラウンド、SEが鳴っていて、いざ劇に入ってから音楽が鳴るというつくりです。
市川崑監督と宅孝二さんのベストなマッチングと言うと、やっぱり『日本橋』だと思いますね。『日本橋』のなかから二シーンほど観ていただきたいと思います。一つは縁日のシーンで、縁日のシーンに旋法は日本的ですが印象派的なタッチのピアノ曲をもってくるという、ちょっと素晴らしいシーン。もう一つのシーンで注意していただきたいのは、「音楽家が解読する映画音楽 5夜」でも頻繁に話題になった、動きにいかに音楽をつけるかという問題ですね。動きと音楽があまりに合いすぎるとミッキーマウシングといういわゆるカートゥーンみたいなものになってしまう。ハリウッドの映画音楽は、いかにその差分を設けていくかという、動きに対して寄り添わないけれども後ろで支えるための技術、アレンジメントを開発してきたわけなんです。この『日本橋』という作品では、それをうまく使いまして、アクションに完全に一致はさせないけれども、うまいこと支えることに成功していると思います。その二つのシーンを、ちょっと観ていただきたいと思います。
(『日本橋』の抜粋の上映)
はい、ありがとうございました。お分かりいただけましたでしょうか。微妙にアクションのタイミングから音楽がずれていたことが、お分かりになったかと思います。市川監督はアニメ出身ですから、いくらでもアクションに音楽をシンクロさせる術は知っているわけです。しかし、微妙な匙加減でそれを回避している。これは見事です。それにしても、この『日本橋』は着物の着付けが完璧ですね。何度観てもそう思います。岩田専太郎さんという挿絵画家の方が色彩指導、時代考証で参加されていらっしゃいますけれども、この着物の着方であるとか帯の高さですね、それだけで演出になっているという気がしました。最近、若い人で着物を着る方も多いと思いますので、ぜひ岩田専太郎さんが関わっている映画を観ていただければと思います。十本もありませんので。『人情紙風船』『流れる』などを担当されていますので、ぜひ着物の着方をチェックしていただきたいと思います。今の『日本橋』は時代劇ですから、フィクション、ファンタジーの要素がちょっと濃いわけですね。そういうなかで、宅孝二さんは、非常にドビュッシー的な音楽を付けているわけですが、市川崑監督との相性は非常に良かったと思います。
この後は宅孝二さんから離れまして、今回の映画祭では上映しない作品をチョイスして、鈴木英夫監督についての作家論みたいなものをお話しさせていただきたいと思います。今日までの上映作品をご覧いただいて、いかがでしたでしょうか。サスペンスやスリラーを得意とする作家だということがお分かりいただけたかと思うんですけれども。今日の「目白三平シリーズ」はホームドラマなわけですが、いかがでしたでしょうかね。ホームドラマでありながらも、人物間の微妙な力関係の配分といいますか、そういうものが映画のなかで随所に映っていたかと思います。親子、恋人、夫婦の間の力関係の配分、力学が、ホームドラマという設定でありながらも、非常にサスペンスをもって描かれていたと思います。
画面の「切り返し」の時ですけれども、鈴木監督の作品は「切り返し」の時に同じ所にカメラが戻らないんですよね。お気づきになった方も多いと思うんですけれども、カメラが同じポジションに戻らない。戻ったとしても画面のサイズを変える。なので、同じ画面が繰り返されないわけですね。そのことによって、単純な二項対立みたいなものではない、非常に複雑で重層的な関係というものが堆積していくわけですね。それを、今回の映画祭では上映しない『花の慕情』という映画のワンシーンで確認していただきたいと思います。
(『花の慕情』の抜粋の上映)
はい、ありがとうございます。いかがでしたでしょうかね。先読みができないカット割りという点では、オルドリッチみたいな感触がありましたね。こちらの予想が覆されていくというような。イマジナリーラインも平気で越えていますし。かといって、ショッキングな効果を狙った繋ぎにはなっていない。人物間の力関係が画面のなかでもうまく提示されているということだと思います。そのような重層的かつ複雑な関係の絡みが描かれて、積み重なっていくので、昨日観ていただいた『社員無頼 反撃篇』でも、結果的には勝利ではあるけれども苦い勝利と言いますか、非常にビターな感じになるわけですね。
ただ、同ポジで切り返す場合もあります。鈴木監督が同ポジで切り返す場合は何事かが解決するときですね。解決に向かっているときに同ポジでの切り返しになる。最後は遂にシンメトリックになって終わってしまうようなことが起こります。同ポジでの切り返しが続いた後は、水平の視線の動きを断ち切るかのように、垂直に縦に人物が配置されていったりする。そういう試みが作家性としてあると思います。では、同ポジで切り返される『花の慕情』のラストシーンのところをちょっと観ていただきたいと思います。
(『花の慕情』の抜粋、ラストシーンの上映)
はい。中村伸郎、おいしいところ持っていくなあという感じですけれども、今観ていただいたので、ちょっとお分かりいただけると思います。山道の傾斜を使った登場人物の立ち位置が、そのまま人間関係の経緯の説明になっているという非常の象徴的なシーンでした。他の作品もその辺りにちょっと注意して観ていただけると、色々と面白いことが見えてくるんじゃないかなあと思いますね。最後に、シンメトリックということで、映画では最後の作品になる『爆笑野郎 大事件』のラストシーンを観ていただきたいと思います。お願いします。
(『爆笑野郎 大事件』の抜粋の上映)
はい、まさに事件の解決は画面上のシンメトリックな構図になって終わるという展開でした。「鈴木英夫映画祭2008」は明日以降も続きますので、暑い日が続きますが、ぜひ足をお運びくださいませ。16日のシンポジウムには、蓮實重彦さん、黒沢清監督、クリス・フジワラさん、篠崎誠監督が出席し、私が司会を務めさせていただきます。16日にはもっと固い話が色々と聞けると思いますので、今日は柔らかめに攻めてみました。
『私は嘘を申しません』のクレジットタイトルの部分を先ほど上映しましたけど、泉和助さんがクレジットされていましたね。伝説的な喜劇人です。エノケンの一座にいて、その後で独立されています。オリジナルのギャグをかなり書ける日本では珍しいタイプの人でした。和っちゃん先生という呼ばれ方をしていて、親しみを込めて和っちゃん、尊敬を込めて先生と呼ばれた希有な人でしたね。死んだ後は皆、泉さんの手帳を欲しがったと言われています。未公開のギャグのネタ満載なわけですからね。ただ、孤独死だったので、死後三日経ってから発見されたという非常に不遇な喜劇人でしたけれども。公式にクレジットされているのはこの『私は嘘を申しません』ともう一本ぐらいですね。あと『君も出世ができる』でもタップダンスを見せてくれていたりします。
『君も出世ができる』の脚本のひとりは井手俊郎さんですが、今日の「目白三平シリーズ」も井手さんが手がけていらっしゃいましたね。この原作はほとんどエッセイ集なんですけれども、それをうまく映画の会話に移し替えていました。会話によって一個一個のエピソードみたいなものをうまく紡いで、一本の映画にしていたように感じました。ということで、今日のトークはこんな感じでやらせていただきました。ご清聴ありがとうございました。