アテネ・フランセ文化センター

講演「ダニエル・ユイレ追悼――ストローブ=ユイレの軌跡 1962-2006」

2006年12月9日

浅田彰(批評家)

浅田彰です。正直に言って、僕は映画の専門家でもなければ、ストローブ=ユイレの専門家、あるいは彼らの友人でもない。彼らの映画を昔から観て多少とも教育されてきた一観客でしかない。まさに皆さんの多くと同じ立場に立っているわけです。ただ、1997年に、アテネ・フランセと神戸ファッション美術館がストローブ=ユイレのそれまでのフィルムを全部集めて上映するという、日本に実質的にストローブ=ユイレを導入する上で決定的な意味をもった催しがあって、そのときに話をさせていただいた(『映画の世紀末』[新潮社]所収)。そういう縁もあって、あらためてストローブ=ユイレの現在までの作品を回顧上映することになったいま、ふたたび話をさせていただくことになった次第です。

もちろん、ストローブ=ユイレの作品をまとめて観る貴重な機会が与えられ、今ここにこれだけたくさんの人が集まって実際に観ている、これはすばらしいことです。ストローブ=ユイレの作品というのは、凄い、凄いと言われて神話化されながら、日本のみならずどこでも実際に観ることが難しい。たまたま映画祭などでちょっと観られたら幸運という感じだった。そういう面では、1997年にはじまって今に至るアテネ・フランセと神戸ファッション美術館のストローブ=ユイレ特集上映は、彼らの作品をまとめて観られる稀な機会であり、その機会を皆さんとこうやって共有できることを単純に嬉しく思います。

と同時に、ごく最近、1936年生まれのダニエル・ユイレが70歳で亡くなった、これはやはりショッキングな悲報でした。しかも、日本のみならず世界中どこでもユイレに関する訃報や追悼記事が非常に少ない。これはスキャンダルだと思うんですね。幸い日本ではこの間『ユリイカ』2006年12月号の「監督系女子ファイル」なる正体不明の特集のなかで、いささか場違いながら、廣瀬純さんが「メイ・デイに生まれた女 ダニエル・ユイレ追悼」という感動的なエッセーを書いておられ、それで日本でもやっとユイレに対するまともな追悼が始まった感じがする。それを引き継いで、というわけではありませんが、ダニエル・ユイレという希有な女性がジャン=マリー・ストローブと一緒にやってきた仕事を追悼を兼ねてここで振り返っておきたい。そして最後に、彼らが最近撮ったシネトラクト(アジビラ映画)を観て、締めくくりにしたいと思います。

1997年の日本での最初のレトロスペクティヴのときにも話したのですが、僕などはストローブ=ユイレのフィルムをどうしてもジャン=リュック・ゴダールのそれと対比してしまうんですね。ゴダールの有名な言葉に、「正しいイメージ(une image juste)なんてものはない、単にイメージが(juste une image)あるだけだ」というのがあります。あらかじめ現実があって、それを正確あるいは不正確にイメージに写し取る、そういう構えは捨てよう、と。単にイメージがあり、イメージのイメージがあり、イメージのイメージのイメージがある、そういうイメージの乱反射のなかで、メディアによるメディアの批判、たとえば、ヴィデオによる映画の批判を通じてのヴィデオによる映画の再構築といった作業をずっとやっていくのが、ゴダールの軌跡だったんですね。シチュアシオニストの言葉で言うと、「スペクタクルの社会」を「スペクタルの社会」の内部からそのメカニズムを通じて批判するということにもなっていく(その点でシチュアシオニストから見るとゴダールは「スペクタクルの社会」に取り込まれているということにもなるわけですが)。1970年代半ばからものを考えはじめた僕たちの世代にとって、このゴダールの戦略は当たり前というか非常に理解しやすいものでした。裸の現実があるとか、それを正確なイメージとして写し取るとか、そういう構えは古臭い社会主義リアリズムなどに通じる「素朴唯物論」として馬鹿にされていた。メディアのなかのイメージの無限(自己)反射の次元にとどまり、それを内側からずらしていくゴダール的な戦略のほうが、新しく、しかも現実的に見えたんですね。それに対してストローブ=ユイレは、いや「juste une image」 とだけは言えない、「une image juste」がある、と頑固に信じていた人たちだと言えるのではないか。むろん、彼らは、自然らしい演技を自然らしく撮影すればいいと考えるナチュラリスト(自然主義者)ではない。にもかかわらず、やはり現実というものに正しい角度から正しくキャメラを向けて正しいイマージュとして写し取ることが絶対に必要だと信じているリアリスト、ある意味で旧左翼的な「素朴唯物論」に戻りかねないようにさえ見えるリアリズムを断固として守り抜くリアリストだと思うんです。(ただ、付言すれば、本当は事態はもっと込み入っている。1997年の講演のときから僕がこの文脈で考えていたのは、ルイ・アルチュセールの『哲学と学者の自然発生的哲学』という、ある意味でドグマティックとも言える特異なテクストであり、そこにおける「真理(vérité)」と「正しさ(justesse)」の区別です。アルチュセールによれば、科学的命題の「真理(vérité)」が現実のデータによる実証・反証で確定されるとしても、哲学的テーゼの「正しさ(justesse)」の場合はそうはいかない。哲学は科学的なものとイデオロギー的なものの間に介入して境界線を引く実践であり、理論における階級闘争なのであって、その「正しさ(justesse)」は階級闘争のなかにおける立場によってはじめて決定される、ということになるーーとすると、科学的命題の「真理(vérité)」もそう簡単には決定できなくなる。旧ソ連のルイセンコ事件などを想起すれば、これは科学の政治的歪曲につながりかねない危険な定式化であるとも言えるでしょう。そういうアルチュセール的な意味での「正しさ(justesse)」――たんに現実との正確な対応という意味での「真理(vérité)」ではなく――に即してストローブ=ユイレにおける「une image juste(正しいイメージ)」ということを言ってみたので、「素朴唯物論」に近く見えもするかれらの立場は実はつねに高度に政治的である、あるいはかれらは「素朴唯物論」を政治的に選択している、と言うべきでしょう。それに関連して、ストローブ=ユイレが同じ映画でもさまざまなヴァージョンをつくってしまうということがある。これは一見すると「正しいイメージ」はない、という態度の表れのようにも見えます。「真のイメージ(une image vraie)」はない、という意味なら、その通りでしょう。いかし、「正しいイメージ(une image juste)」は必ずあると考えるからこそ、彼らはいっそう「正しいイメージ」を求めて妥協を知らず複数のヴァージョンまでつくってしまうのであって、そんなことは考えずに済むのなら最初のヴァージョンで十分ということになるでしょう)。

ともあれ、一方で、僕は、メディアによるメディアの批判と再構築をずっとやってきたゴダールの仕事がまさに巨大な万華鏡のような『映画史』に集大成され、そこからまた別の形で新しい映画が生まれてくる、その過程を強い関心をもって見てきたわけですが、他方で、それに対するもうひとつの極として、正しい現実に正しい角度から正しくキャメラを向けて正しく捉えることにとことんこだわり抜いたストローブ=ユイレに、ある重しのような役割を期待し続けてきた。ゴダールがイメージの乱反射のなかでいわば上へ上へと浮遊していくとき、ストローブ=ユイレが現実に根ざした正しいイメージにこだわって大地を歩み続ける、それがいわば映画空間の両極を張っているというのが、ぼくの大雑把な構図でした。

さて、ゴダールは最初アンナ・カリーナと浮名を流したりする。68年の五月革命の前ぐらいからは、ジャン=ピエール・ゴランと熱烈な同志愛で結ばれて、アジビラ映画を作ったり、パレスチナに行ったりする。しかし、それが破綻し、人間関係も苦しくなる、交通事故にもあうというときに、今度はアンヌ=マリー・ミエヴィルと一緒にグルノーブルへ、そしてレマン湖畔のロールへ逃走していく。そこで、いわば自宅録音に近い形で、自宅映画とも言うべきものを撮り続け、それが『映画史』のような巨大な作品群に至るわけです。こうしてみると、ゴダールにとって、ある時期ゴランと一緒にやり、その後ミエヴィルと一緒にやったということは、確かに重要なことでしょう。しかし、彼自身が常にくるくる回転している独楽のようなもので、ある時期にゴランと、ある時期にミエヴィルと共振しただけといった感じが強いんですね。ゴダール=ミエヴィルというユニットは確かにそれとして成立しているわけですが、そこに絶対的な必然性があったとはどうも思えないんです。ところが、ストローブ=ユイレに関して言うと、初期作品ではクレジット上はストローブの単独監督となっていてユイレの名前はスタッフの一人として出てきたりするわけですが、考えてみると、彼らは、映画を作り始める前から、実生活においても芸術活動においても最初から分ち難く結ばれた形で出発し、ずっとタンデムを組んで前進してきたペアである。だから、ジャン=マリー・ストローブの映画とかダニエル・ユイレの映画とかいうものは(少なくとも今までは)ない、あくまでストローブ=ユイレというユニットがユニットとして生きて闘ってきて、共に生きて闘う一環としてストローブ=ユイレの映画を生み出してきたということになる。これはやはり特権的なペアと言うべきでしょう。

ダニエル・ユイレは1936年5月1日に生まれたことになっている。廣瀬純さんが追悼記事でも書いておられるように、これはちょうど人民戦線政権が成立する直前のゼネストの日で、彼女自身、そういう日に生まれたのは興味深いことだと言っています。それでパリのリセに行き、映画をやろうと思って、映画学校に入るための準備クラスに入る。そこへ三歳年上のジャン=マリー・ストローブがアルザス=ロレーヌ地方のメスからやってきて、同じリセのクラスに入るわけです。だから、彼女はまだリセエンヌだったときに、もう「この人」と決めたわけですね。その後、一応ソルボンヌ大学に行くんだけれども、入学して30分後にはもう憎悪で一杯になって大学を出た、と。それから今度はI.D.H.E.C.という映画専門学校に行こうとするんですが、ある映画を分析せよという入学試験問題が出たのに対し、「こんなくだらない映画を分析する価値なんかまったくない」と言って白紙を提出し、そのまま映画専門学校にも入らずに終わる。要するに、高校卒業のままということでしょうか。それでもとにかく、ストローブとふたりで活動を始めることになるわけですね。しかし、ちょうどアルジェリア戦争の時代で、ストローブは兵役忌避のためフランスにいられなくなり、ふたりはある意味でドイツに亡命する。60年代後半になって今度はイタリアに行く。むろんヨーロッパの枠内ではありますよ。ストローブ=ユイレの映画には、カフカの『アメリカ』があるし、『早すぎる、遅すぎる』でエジプトが出てきたりしますけれども、彼らの映画で描かれるのも概ねヨーロッパです。けれども、ストローブ=ユイレの映画はフランス映画とかドイツ映画とかイタリア映画とかいう枠には収まらない。フランスからドイツを経てイタリアに行き、つねに異邦人としてドイツ語やフランス語やイタリア語を使って映画を撮り続けた。フランス映画なりドイツ映画なりイタリア映画なりを外側から異化し続け、別の形に作り替え続けた。その困難を思えば、ストローブ=ユイレの多産な軌跡は驚嘆に値します。

1960年代に入って、ストローブ=ユイレは、『マホルカ=ムフ』、それから『妥協せざる人々』というまさに彼らのこととしか言いようがないタイトルの映画を撮ってデビューするわけですけれども、何といっても彼らを有名にしたのは『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』でしょう。音楽映画ということで普通のクラシック・ファンの観客が間違って観てしまう――間違ってというか、正しいことだと思うのですけれども、それでわりに一般的に観られたんですね。ところが、その『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』でストローブ=ユイレを知った人も、その後の『オトン』や『歴史の授業』などになってくると、現代のローマの街頭でイタリア訛りの俳優がコルネイユの台詞をもの凄いスピードで喋りまくるとか、あるいは現代都市を延々と車に乗ってどこかに行ったと思ったらとつぜん古代ローマ人たちが出てきてブレヒトの台詞を喋るとかいった感じで、なんだかわけが分からない。ほとんどの人はわけが分からないというところで終わっちゃったと思うんです。しかし、もう一回『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』に戻って考えると、彼らがそこで確立してその後ずっとやり続けたことがはっきりすると思うんですね。

あの映画では、J・S・バッハをグスタフ・レオンハルトというチェンバロの大家が演じており、ケーテン侯をニコラウス・アルノンクールという古楽の指揮の大家(今や古楽の枠を超えた巨匠になり、最近もウィーン・フィルと一緒に来日公演をしていたけれど)が演じている。それも、実際に演奏しながら演じているわけです。当時、クラシック音楽一般の中ではこの人たちは必ずしも有名ではなかった。ストローブ=ユイレは『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』のプロジェクトを前から持っていたけれど、いろんなプロデューサーに話をしても、当時のスターであるクルト・ユルゲンスにバッハを演じてもらったら、などと言われ、それではだめだと断ったら、じゃあスター指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンはどうか、などと言われたらしいんですね。そういう介入を拒否し、絶対にレオンハルトで行きたいと言って、さまざまなオファーを蹴りつつ、遂に初志を貫徹して、十年ぐらい経ってこの映画ができるわけです。

当時、レオンハルトやアルノンクールがやり始めたのは、厳密な校訂を通じてバッハならバッハの元の楽譜をできるだけオリジナルに近い形で復元し、徹底的に研究した上で、当時の楽器、あるいはできるだけそれに近いものを使って、19世紀ロマン派以後に広まった妙な感情移入やドラマティックな演出(とくにテンポの伸縮)なしにザッハリッヒ(即物的)に演奏するということです。いわゆるピリオド楽器によるオーセンティックな奏法ですね。それが対立しているのは、ヴァーグナーから(指揮者だと)フルトヴェングラーを通じてカラヤンに至るようなロマン主義的な演奏のスタイル、どんな音楽でもヴァーグナーのように巨大なオーケストラを使ってドラマティックに演奏してしまうスタイルです。カラヤンに至ると、縦の線をほとんど無視してテンポを主観的に伸縮させながら音楽を流線型の華麗な流れと化し、半強制的な感情移入によって聴衆をそのなかに引きずり込んでいく、というようになる。ある種、ファシズム的な美学ですね。それは言い過ぎだといても、後期資本主義社会における「聴取の退化」(アドルノ)の典型です。それに対して「ノン」と言ったのがレオンハルトやアルノンクールといった人たちだった(古楽でも、カール・リヒターらの演奏は、むろんカラヤンとは違うとはいえ、どこかそれに通じる壮麗なドラマとして演出されていたので、それに対比しても彼らの新しさは明らかです)。要するに、大オーケストラや大コーラスはやめる。そもそもバッハの時代は10人、20人でやっていたのだから、それでいいではないか。縦の線を重視し、むしろ機械的なくらい速めで一定のテンポを保つ。強弱も、連続的なグラデーションで変化させるより、むしろ機械的に強弱を対立させる。ヴィブラートによる表情豊かな表現を排し、できるだけノンヴィブラートであっさり弾く。このように、カラヤンに極まるような、流線型の巨大なオーケストラ音楽で共同体の感情移入を誘う方向に対し、むしろそれを異化する。ザッハリッヒに、言い換えれば風通しよくドライにいくというのが、この時代に始まったことです。これは古楽で始まったわけですが、アルノンクールなどの場合、その後モーツァルトやベートーヴェン、さらにはロマン派でもそういう形でやってみたらどうかということになってくる。60年代はマイナーだったのが、いまやメジャー化したとは言わないまでもずいぶん一般化してきた。実をいえば、昔の楽器や奏法をどんなに研究しても、録音はないんだし、当時本当にどんな演奏が行なわれていたかはわからないんで、僕なんかはピリオド楽器によるオーセンティックな奏法と称するものの流行がちょっと行き過ぎているんじゃないかと思ったりもする。それこそゴダール的に、たんに音楽があるので、正しい音楽なんてない、と言いたくなったりもする。ともあれ、それくらい、正しい音楽を可能なかぎり歴史的研究で裏付けて演奏しよう、ロマン派の時代にこびりついた余分な化粧は削ぎ落とそうという動きは、古楽の枠をこえて、かなり一般的になってきているんですね。(ちなみに、古楽的なアプローチではなく、現代のオーケストラを使った演奏でも、ストローブ=ユイレのシェーンベルクのシリーズで指揮者を勤めているギーレン[シェーンベルクの女婿のノーノから推薦された]などは、カラヤン的な演奏とはまったく違う、非情なまでにザッハリッヒな演奏スタイルを貫いてきました。ベルリンで彼がアドルノの小品とベルクのヴァイオリン協奏曲を振るのを聴いたことがあるのですが、後半のシューベルトの第8交響曲は、フルトヴェングラーの演奏だと「天国のように長い」はずが、その1.5倍はあるんじゃないかと思われる超高速でさーっと演奏され、さすがに唖然とさせられたものです)。

当時、レオンハルトやアルノンクールがやり始めたのは、厳密な校訂を通じてバッハならバッハの元の楽譜をできるだけオリジナルに近い形で復元し、徹底的に研究した上で、当時の楽器、あるいはできるだけそれに近いものを使って、19世紀ロマン派以後に広まった妙な感情移入やドラマティックな演出(とくにテンポの伸縮)なしにザッハリッヒ(即物的)に演奏するということです。いわゆるピリオド楽器によるオーセンティックな奏法ですね。それが対立しているのは、ヴァーグナーから(指揮者だと)フルトヴェングラーを通じてカラヤンに至るようなロマン主義的な演奏のスタイル、どんな音楽でもヴァーグナーのように巨大なオーケストラを使ってドラマティックに演奏してしまうスタイルです。カラヤンに至ると、縦の線をほとんど無視してテンポを主観的に伸縮させながら音楽を流線型の華麗な流れと化し、半強制的な感情移入によって聴衆をそのなかに引きずり込んでいく、というようになる。ある種、ファシズム的な美学ですね。それは言い過ぎだといても、後期資本主義社会における「聴取の退化」(アドルノ)の典型です。それに対して「ノン」と言ったのがレオンハルトやアルノンクールといった人たちだった(古楽でも、カール・リヒターらの演奏は、むろんカラヤンとは違うとはいえ、どこかそれに通じる壮麗なドラマとして演出されていたので、それに対比しても彼らの新しさは明らかです)。要するに、大オーケストラや大コーラスはやめる。そもそもバッハの時代は10人、20人でやっていたのだから、それでいいではないか。縦の線を重視し、むしろ機械的なくらい速めで一定のテンポを保つ。強弱も、連続的なグラデーションで変化させるより、むしろ機械的に強弱を対立させる。ヴィブラートによる表情豊かな表現を排し、できるだけノンヴィブラートであっさり弾く。このように、カラヤンに極まるような、流線型の巨大なオーケストラ音楽で共同体の感情移入を誘う方向に対し、むしろそれを異化する。ザッハリッヒに、言い換えれば風通しよくドライにいくというのが、この時代に始まったことです。これは古楽で始まったわけですが、アルノンクールなどの場合、その後モーツァルトやベートーヴェン、さらにはロマン派でもそういう形でやってみたらどうかということになってくる。60年代はマイナーだったのが、いまやメジャー化したとは言わないまでもずいぶん一般化してきた。実をいえば、昔の楽器や奏法をどんなに研究しても、録音はないんだし、当時本当にどんな演奏が行なわれていたかはわからないんで、僕なんかはピリオド楽器によるオーセンティックな奏法と称するものの流行がちょっと行き過ぎているんじゃないかと思ったりもする。それこそゴダール的に、たんに音楽があるので、正しい音楽なんてない、と言いたくなったりもする。ともあれ、それくらい、正しい音楽を可能なかぎり歴史的研究で裏付けて演奏しよう、ロマン派の時代にこびりついた余分な化粧は削ぎ落とそうという動きは、古楽の枠をこえて、かなり一般的になってきているんですね。(ちなみに、古楽的なアプローチではなく、現代のオーケストラを使った演奏でも、ストローブ=ユイレのシェーンベルクのシリーズで指揮者を勤めているギーレン[シェーンベルクの女婿のノーノから推薦された]などは、カラヤン的な演奏とはまったく違う、非情なまでにザッハリッヒな演奏スタイルを貫いてきました。ベルリンで彼がアドルノの小品とベルクのヴァイオリン協奏曲を振るのを聴いたことがあるのですが、後半のシューベルトの第8交響曲は、フルトヴェングラーの演奏だと「天国のように長い」はずが、その1.5倍はあるんじゃないかと思われる超高速でさーっと演奏され、さすがに唖然とさせられたものです)。

たとえば、ヌーヴェル・ヴァーグといえば即興演出で、その場で俳優に適当に喋ってもらい、それを適当に編集して使えればいいじゃないか、というイメージですね。しかしストローブ=ユイレはそうではなくて、正しいテクストがあるとしたらそれを正しく読まなくてはいけない、一語一語の発音からイントネーションやアーティキュレーションにいたるまで全てにおいてそうだ、と考えている。バッハの楽譜を正しく厳密に演奏するように、脚本を正しく厳密に朗詠しなくててはいけない、と。そして、そのような朗詠法で台詞を語る人たちが複数集まってドラマを演じていくことになるわけです。先ほどの『あの彼らの出会い』のような究極的な作品になると、それはドラマに見えないかもしれない。しかし、それこそがドラマだと、ストローブ=ユイレは言うと思うんですよ。

音楽の話に戻ると、とくにヴィデオが一般化してから、オペラの舞台上演のヴィデオなども出回っているけれど、オーケストラや室内楽やソロの演奏会のヴィデオ、つまり単に音楽家たちが演奏している姿をヴィデオで観ることが増えたわけですね。これは考えてみたら変なことです。オペラだと、実際に労働して音楽を生産している人たちは舞台の邪魔になるからオーケストラ・ボックスのなかに入っている。ヴァーグナーの思い通りに作ったバイロイト祝祭劇場などに行くと、オーケストラは大きなラッパのような穴のなかに入っていてまったく見えない。その穴から出てくる音楽を聴きながら、観客は後ろのちゃんと演出された舞台を観ればいい、ということになっているわけです。確かに舞台を写したヴィデオも観ますよ。ストローブ=ユイレならシェーンベルクのオペラを撮った『モーゼとアロン』や『今日から明日へ』などは、舞台ではなく映画のために演出されたものだとはいえ、それに近いものだと言えます。しかし、それと同じぐらい頻繁に、われわれは演奏会のヴィデオを観るわけです。本来なら、美しい音楽をCDなり何なりで音として聴けば十分なんで、演奏家が汗だくで苦労している姿なんか観たってしょうがないんですよ。ところが、やっぱり演奏というものを観てしまうんです。もちろん、ひとつには、先ほど言ったカラヤンみたいなスター指揮者の流麗な指揮を観たいという欲望はありますよ。しかしそれ以上に、音楽を舞台の上で一所懸命生み出している人たち、その一種の労働の姿に、労働生産物である音楽と同じぐらい感動するということもあると思います。スター崇拝で凄い指揮者や凄いピアニストの妙技に魅了されるというだけじゃなくて、たとえばレオンハルトとかアルノンクールとか彼らと一緒にやっている人たちが地味な格好をしてしかめ面で淡々と演奏している、それをなぜか吸い込まれるように観てしまうということがあるんです。音楽でそれが可能であるならば、文学や映画でも同じようなことができないはずはない。楽譜を正しく演奏している人たちの姿がそれ自体として素晴らしい音楽を生むと同時に映像としても素晴らしいのだとすれば、テクストを正しく読んでいる人たちの姿は、それを正しく撮影するならば、テクスト自体の中身と同じぐらい感動的なはずだ、ということになるわけです。先ほどの『あの彼らの出会い』などは、その典型でしょう。このテクストは神話的な詩劇で、神話の登場人物がふたりずつ対話をする。でも、映画に登場する素人俳優たちは、普通の格好のままの普通のおじさんとおばさんだったりする。その人たちが、パヴェーゼの書いた密度の高い詩的なテクスト、ちょっと聞いただけでは分かりにくいテクストを、細心の注意を払って厳密に読んでいる。別にイタリア語が分からなくても、イタリアの光のなかでそうやってふたりの人物が詩句を朗詠している姿は、ふたつのヴァイオリンがデュエットを奏でる姿と同じように、それ自体として感動的である。もちろんテクストの内容を理解することで感動が深まっていくわけですけれども、まずもって音楽家たちが音楽を生み出している労働の姿がそれ自体として感動的なように、俳優たちが脚本というスコアを朗詠する、そのリサイタル(朗読)の情景が、それ自体として感動的なんです。



このもっとも極端な例として、『フォルティーニ/シナイの犬たち』を挙げることができます。フランコ・フォルティーニというイタリアの左翼の作家が、67年の中東戦争のときにユダヤ人でありながらイスラエル国家を批判したことがあって、そのときのことを自分の人生を回顧しながら語る作品ですが、要するに、フォルティーニが自分の書いた本を光溢れるエルバ島のテラスで延々と朗読しているだけなんですよ。しかし、フォルティーニの回想によれば撮影は大変だったらしい。ストローブ=ユイレはフランス人のくせにイタリア人のフォルティーニに「おまえのイタリア語の読み方は違う」とか言ってむちゃくちゃに細かく注文を出し、フォルティーニはかつて自分の書いたイタリア語の文章なのにストローブ=ユイレの指示に従って読み方を細かく練習させられたらしいんですね。それも、30年前に父と過ごしたエルバ島の白いテラスに座って本を読む。まさにその場所であるということが「正しいイメージ」の条件なので、どこで撮ってもいいというわけにはいかないんです。しかも、「あのときは花が咲いていたはずだ」とかフォルティーニが言ってしまったので、「じゃあ花が咲くまで待とう」ということになり、毎日ユイレが水をやっていたら、一週間ぐらいして花が咲いた。その頃には朗読もストローブ=ユイレの意図した水準になっていたので、そこでやっと収録した、というわけです。確かに、最初に観たときは唖然としました。光に満ちた白いテラスに花が咲いていて、そこで苦渋に満ちた過去の回想を延々と読んでいる白髪の作家がいるだけですよ。しかし、ふと、これは音楽だと思える瞬間がある。そして、まずは音楽として観ていくと、このリサイタル(朗読)は最高の演奏会と同じくらい感動的に観えてくる。その瞬間にわれわれはストローブ=ユイレのフィルムを体験しはじめているのではないかと思います。中身を理解するのは後でいいんですよ。確かに、ユダヤ人でありながらイスラエル国家を批判するということがどういう意味だったか、そのときの自分の立場を幼年期から戦中・戦後の体験を含めて反省するという非常に重い内容のテクストには違いない。しかし、そのテクストを白髪の作家が単に淡々と読んでいる姿が正しい角度から正しい光と音の条件の下に映像化されるとき、その「正しいイメージ」はすでにして音楽的であり文学的であり、そして映画的である。それゆえにテクストの内容がいっそう際立つことにもなる。ストローブ=ユイレのフィルムの素晴らしさに、われわれはそうやって接近することもできるのではないかと思います。劇映画からではなく音楽映画から考えると、ストローブ=ユイレのやっていることは別に極端に変わったことではなく、いたって真っ当なことだとわかるのではないか。音楽家がバッハやシェーンベルクのスコアを正しく読み解いて正しく演奏するのは当然のことであるのと同じように、俳優がヘルダーリンやパヴェーゼのテクストを正しく読み解いて正しく朗詠するのは当然のことだし、それを正しく映像化したものはそれ自体として感動的である。そうした「リサイタル」(朗読)の映画を基本として、『妥協せざる人々』から『アメリカ』をへて『シチリア!』にいたる、わりあい劇映画らしい映画も、正しく捉え返すことができるのではないかと思います。



こうしてみると、ストローブ=ユイレがやってきたことは、ある意味で、67年の『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』でレオンハルトやアルノンクールたちと協働したときから本質的に変わっていないとも言える。むしろ不思議なのは、レオンハルトやアルノンクールらの仕事が音楽の領域ではわりに当たり前のこととして受け入れられるようになったのに対し、ストローブ=ユイレの仕事が映画の領域ではますます孤絶していくように見えることの方だという気さえします。



それはストローブ=ユイレがペアとしてずっとやってきたことですが、労働――というか手仕事的な厳密性に関して言うと、やはりダニエル・ユイレの果たしてきた役割は非常に大きいと思います。ル・フレノワでストローブ=ユイレが『シチリア!』を編集しながらときどきレクチャーしているのを撮った『映画作家ストローブ=ユイレ/あなたの微笑みはどこに隠れたの?』というペドロ・コスタの見事なドキュメンタリーがある。それを観ていると、それこそレオンハルトがチェンバロを弾いたり調律したりするようにして、ユイレが編集台に向かってフィルムを編集している。少なくともそこでは労働しているのは大体ユイレなんですね。ところが、彼女が編集台の前に座ってテキパキ仕事を進めているその横をストローブがうろちょろうろちょろしていて、何かと無理難題を言うわけですよ。例えば「ノン」という言葉ではじまるショットについて、いや君、「N」という音の手前にあってそれを用意するハーモニクスまで聞かせなきゃいかん、ちょっと前まで遡ってみたまえ、とか言ったり、ある男の目にちょっと微笑みが宿っていると、これまた前まで遡ってその微笑みがどこから生成してきたかちゃんと見せなきゃいかん、とか言ったり、もう本当にうるさいんですね。ほとんどぼやき漫才みたいな感じですよ。で、テキパキ仕事を進めるユイレが、ときどき堪りかねて「ストローブ!」と怒鳴ると、ストローブは廊下へ逃げていってタバコを吸ったりしている。しかし、ほとぼりが冷めた頃にゴホゴホ言いながら戻ってきて、しかし君あれはやっぱりこうじゃないか、と。労働しているユイレとそれを邪魔しているとしか思えないストローブ。その姿は、ほとんど夫婦漫才のようです――柄谷行人の言うように弁証法とは漫才だという意味においても。ともかく、あのふたりがこういう形でものを考えて協働して喧嘩して一緒にやってきたんだなということがよく分かる素晴らしいドキュメンタリーであり、コスタからの師ストローブ=ユイレに対する最大のオマージュでもあると言えるでしょう。(付言すると、後にもうひとつのすぐれたドキュメンタリーとして、『シチリア!』の撮影をとらえたジャン=シャルル・フィトゥッシの『「シチリア!」撮影開始』に触れる機会があり、『シチリア!』の(再)編集をとらえたコスタのドキュメンタリーはフィトゥッシのドキュメンタリーと併せて観るべきものだと感じました。ル・フレノワでのストローブはむしろストローブを演じているという、フィトゥッシが私に語った印象は、おそらく正しい。その点、われわれはフィトゥッシのドキュメンタリーの中に現場で作業するストローブの生き生きした姿を見出すことができます)。



こうしてみると、ユイレが亡くなるというのは、ストローブにとって、巨大な損失というような言葉ではとらえられない、ほとんど茫然自失するような出来事だったのだろうと思います。45年近くも労働=闘争を共にしてきたパートナーを失ったストローブが今後どういう形で映画製作を続けていけるのか。周りの人たちに支えられながら、必ずや前進し続けるだろうと思うし、そう期待せずにはいられない。しかし、ストロ-ブ=ユイレという稀有のペアによる映画製作には、ユイレの死によって終止符が打たれてしまった。この冷厳な事実を、われわれは正面から受け止めないわけにはいきません。

振り返ってみれば、去る9月のヴェネツィア映画祭に『あの彼らの出会い』が出品され、久しぶりにストローブ=ユイレが表舞台に帰ってきたところでした。長年の功績に対する賞も受けるということで、授賞式に出るはずだったのが、案の定、来ない。代わりに、ディレクターのマルコ・ミュラーにストローブから手紙が届く。ミュラーがわれわれを選んでくれた大胆さに感謝するけれども、フェスティヴァルといったって警官や探偵がテロリストを求めてうようよしているような所ではとてもフェスティヴ(祝祭的)な気分にはなれない、というのも俺はテロリストだから、と。そして、フランコ・フォルティーニをパラフレーズすれば、アメリカの帝国主義的資本主義があるかぎりにおいてテロリストがどれだけいても十分すぎることはない、と。僕自身はこんなことは言えませんし、それを全肯定することもできませんよ。けれども、長年にわたって徹底したレジスタンスを続けてきたストローブという人が、敢えて「俺はテロリストだから」と断言してしまうことに、ある種の感動を覚えずにいられなかったのは事実です。ともあれ、そういう手紙が来ただけで、体調が悪いという理由から彼らは映画祭に来なかった。ストローブももう73歳だし、大変なのかなと思っていた。ところが、問題はストローブではなくユイレだった。9月のヴェネツィア映画祭から一ヶ月も経たないうちに、彼女の訃報が伝えられたわけです。


しかし、40数年のキャリアを通じて、このふたりがストローブ=ユイレというペアとしてこれだけの仕事をやり続けてきた、そのことこそむしろ驚嘆すべきことだと言うべきでしょう。先ほど言ったように、97年の段階では『アンティゴネー』までが日本に紹介された。そこまでをとっても、質においても量においても圧倒的な作品群が林立している。しかも、それからわずか10年足らずのうちに、『ロートリンゲン!』『今日から明日へ』『シチリア!』『労働者たち、農民たち』『放蕩息子の帰還/辱められた人々』『ルーヴル美術館訪問』『あの彼らの出会い』と、これだけの作品群が新たに加わっているわけです。はっきり言って、97年の段階でも、このままやり続けるのはさすがに苦しいだろうと思っていた。ところが、そう思っていたわれわれがいかに浅はかだったかを思い知らされるように、以後の10年たらずの間におそるべき密度をもったこれだけの作品群がわれわれをさらに圧倒することになったわけですね。今となっては早すぎた終焉を予知するようにも見えますが、ユイレの朗読が印象的な『セザンヌ』のある種の続編として、セザンヌがルーヴル美術館に行ったときの同行者の聞き書きを元にする『ルーヴル美術館訪問』が撮られている。それから、パヴェーゼの「レウコとの対話」のなかの五、六篇を使っていた『雲から抵抗へ』の続編であるかのように、数十年経った今、『あの彼らの出会い』が作られている。昔『セザンヌ』や『雲から抵抗へ』でやり残していたことをもう一回『ルーヴル美術館訪問』や『あの彼らの出会い』でやってのけていると言ってもいい。そういう意味で、40数年間、徹底して「正しいイマージュ」を追求し続けた見事に一貫した人生だった――「だった」と過去形で言うのはユイレについてですけれども、ストローブがその実践をさらに続行していくことを期待せずにはいられません。

ジャン=リュック・ゴダールとの対比にこだわることもないんですが、それで話を始めたので、最後にまたそれに関わる思いつきを言っておきます。ゴダールの近作『Notre Musique』(アメリカ資本主義嫌いのゴダールへの嫌みででもあるかのように『アワーミュージック』という邦題になっていますが)のなかでは、ゴダール自身の演ずる「ゴダール」は良かれ悪しかれ良心的知識人として描かれており、彼が出会い損なうオルガというユダヤ人女性が、いわば反戦テロリズムとでもいった形で、イスラエルの映画館で平和を実現しないのなら自爆テロをするぞと言い、バッグから本を取り出そうとして射殺される、という話になっている。そのオルガに対するレクイエムというか、最終的にオルガが天国にいる光景――といっても、たんなる湖畔の、しかし信じがたく美しい光景を撮って、映画はしめくくられるんですね。もちろん『アワーミュージック』の方が先に撮られているんですが、いま考えてみると、この作品がユイレに対するレクイエムのように見えなくもない。いわば反暴力という暴力を貫いて平和のためのテロリズムを敢行するオルガという女性が、ゴダールにとってのユイレとどこかで重なっているような感じがしないでもない。ゴダールはそのオルガにDVDを渡されながらヴィヴィッドな反応を返すこともせず、その意味で本質的には出会いそびれて、スイスの家に帰り、花に水をやったりしている――これがまたエルバ島のテラスの話と通じちゃうんですけどね。そこへ突然電話がかかってきてオルガの訃報を知らされ呆然とする――自分をこういうボケ役にしちゃうとはゴダールもなかなか大したものだと思いましたけれど。ともあれ、ゴダールが意図しない形で、しかし結果的に、反暴力のための暴力というか、平和のためのテロリズムというか、そういったものをとことんまで追求していく女性を、ユイレに重ね、それにオマージュとレクイエムを捧げているように見えるんです。

いずれにせよ、ストローブ=ユイレについて正しく語るのはほとんど不可能に近いほど難しい。やっぱり今日もうまく話せなかったと言うほかありません。弁証法が中断されて呆然とする。それがストローブ=ユイレの本質的なモーメントでしょう。『モーゼとアロン』で、偶像崇拝とその禁止にかかわる緊迫したドラマが「おお言葉よ言葉、われに欠けたるは汝なり」と言ってモーゼが崩れ落ちる瞬間に中断され、シェーンベルク自身そこで作曲を中断するのだけれど、舞台上演ではカットされることが多いその後の第三幕が白々した空間の中で台詞だけで演じられる。たとえばあれがストローブ=ユイレの本領でしょう。『あの彼らの出会い』でも、対話の一つ一つが終わった後、しばらくフワーッと白ける。しかし、光のなかにふたりの人物が立っているその白々とした風景が圧倒的に素晴らしい。そのようなものを観て呆然自失するというのが、ストローブ=ユイレの正しい観方だという感じもして、今日も映画を観たあと呆然自失して失語のうちに家路につくというのがたぶん正しいんでしょうけれども、たまたまユイレの訃報が届いたということで、追悼と称して下らぬお喋りをしてしまいました。最後に、今のテロリズム発言とも関連するストローブ=ユイレの最近のシネトラクト(アジビラ映画)を見て、この追悼上映会を締めくくる――というより中断することにしたいと思います。

去る2005年、パリの郊外で職のない移民労働者の子どもたちの暴動が起こって、車が燃やされるというような騒ぎになった。そこへ、今度の大統領選挙の右翼の有力候補である(後に実際に大統領になった)ニコラ・サルコジが内務大臣として警察を率いて乗り込んで行き、若者たちをあえて「racaille(ゴロツキ)」という差別用語で呼んで火に油を注ぐ騒ぎになった。ちなみに、左翼の大統領候補になるはずのセゴレーヌ・ロワイヤルも、不良少年には軍隊式の教育で秩序を叩き込まないとだめだというようなことを言った、つまり、そう言わないと右(さらには極右)に票が流れる状況になっているわけですね。そういう状況のなか、10月27日に、クリシー=ス=ボワという貧しい人たちの押し込められた郊外の町で、警官隊に追われたふたりの少年がたまたま変電所に逃げ込み感電死するという事件が起こる。それが暴動をさらに大きくするきっかけになったりもしたわけですね。この事件をテーマとするシネトラクトをストローブ=ユイレが撮っていて、インターネットでも観られますが、せっかくの機会なので、それを観ながら、ダニエル・ユイレとジャン=マリー・ストローブという「妥協せざる人々」の姿にもういちど目を凝らしたいと思います。かつて『早すぎる、遅すぎる』でフランス各地の都市でなされたように、クリシー=ス=ボワの町の一角が厳密きわまるパノラマ撮影でとらえられる。そこに工場の門のようなものが現れ、事件の後にかけられたのであろう、「命を危険にさらすな」という看板が映し出される。それこそ事件の現場である変電所なんですね。ただそれだけの映像が何度か反復される。説明もなければプロパガンダめいた言葉もない。その厳密な最小限の映像は、しかし、きわめて雄弁なアジビラになっていると同時に、それ自体見事な映像作品となっている。予定調和的になりがちな上映会・講演会を、このシネトラクトをもって中断することこそ、ストローブ=ユイレにふさわしいことのように思います。ストローブ=ユイレの軌跡に完結=終焉はないからです。