木全公彦(映画批評家)
木全です。よろしくお願いします。佐分利信は1909年生まれですから、今年で生誕100年です。生誕100年を祝してこの講演を企画した、というわけではありません。企画した後、今年が生誕100年であることを知った次第で、まったくの偶然です。
さて、ご覧いただいた『広場の孤独』ですが、皆さんもそう思われているかもしれませんが、決して大傑作ではないと思います。にもかかわらず、この作品を上映したのはふたつの理由があります。ひとつ目は、この『広場の孤独』が滅多に上映されない作品だからです。なぜかほとんど見る機会がない。そして、ふたつ目は、この作品に佐分利信の監督としての特徴がよく表れているということがあります。まず美学的な側面に注目すれば、佐分利信はディープ・フォーカスで奥行きのある画面をよく撮る。それから窓とか鏡といった矩形を画面に導き入れることが多い。そういう特徴がこの作品にも見てとれます。
ただ、最近、私は表象的、美学的な批評に懐疑的でして、今日もそのようなことを中心にお話しするつもりはありません。映画監督として知られざる佐分利信について、少しこの作品を通してお話ししようというささやかな試みであると申し上げておきます。今回の『広場の孤独』には、この作品が取り上げているテーマ、背景、配役、スタッフ、演出法など、あらゆる点で佐分利信の映画の特徴がよく表れています。
物語の背景という点ですが、堀田善衛の原作では、朝鮮戦争前夜になっているんですが、映画ではご覧いただいたようにスターリンが死去した直後というように、若干時代設定が変更されています。この映画は1953年の作品ですけれども、同時代の映画で、冷戦下の、特にスターリンが死んだ直後の混乱した日本をこれほどの規模で描いた作品は他に無いと思います。佐分利信がいかに社会派の監督であったかがよく分かります。それから、プロデューサーの星野和平、脚本家の猪俣勝人、そして監督の佐分利信――佐分利信の映画は大体このトリオなんですけれども、その三人が揃った作品であることも、この講演の参考上映としてふさわしいのではないかと思っています。佐分利信は同時代的には監督として高く評価されていまして、そんな彼の豊かな人脈が、この映画を見るとよく分かります。社会党の片山哲がこの映画に出演していました。原作者の堀田善衛も映っていました。武田泰淳も顔を出していました。劇作家の田中千禾夫も、美術監督の伊藤熹朔も出演していました。プレスシートを読むと、政治家、文化人など20名以上の著名人が出演していたようです。
さて、佐分利信は監督として独立プロを中心に映画を作っていました。当時は撮影所システムですから撮影所のなかにセットを組み立てるのが当たり前ですが、この作品はほとんどロケセットです。いわゆるセミドキュメンタリー・タッチをねらって、セットでない実際の建物や街頭で撮影している。佐分利信のリアリズム志向が分かる点でもこの作品は重要です。それと、自身が俳優であるにもかかわらず、佐分利信は素人が好きだとインタビューで言っているんですね。菅佐原英一という東大出身の役者がこの映画でデビューしていて、彼は佐分利信の次の監督作である『叛乱』にも出演します。『慟哭』という映画では阿部寿美子という女優が抜擢されています。『人生劇場』では舟橋元がデビューでいきなり主役です。そうした佐分利信が抜擢した新人のなかで最大のスターは三橋達也です。彼のデビュー作は佐分利信監督の『執行猶予』で、『女性対男性』、『あゝ青春』、『慟哭』と連続して起用されています。その後、三橋達也は川島雄三と組み、めきめきと売り出します。
さて、佐分利信ですが、もともと監督を志望して映画界に入っています。脚本家志望の池部良が俳優に、キャメラマン志望で映画界に入った三船敏郎が俳優になったのと同じパターンです。佐分利信は、内田吐夢監督の『日本嬢(ミスニッポン)』という日活作品で、島津元という芸名でデビューして、後に松竹に移ります。松竹には島津保次郎がいて、島津保次郎に俺と同じ名前だなんてけしからんと言われて、佐分利信に芸名を変えます。いつか監督をしたいと願っていたのですが、それがずっと叶わぬまま、戦後になって東宝争議が起こります。
東宝争議の混乱に乗じていくつかのプロダクションができるんですけれども、そのときに佐分利信は星野和平という人と組んで芸研プロというプロダクションを作り、そこでやっと念願の監督デビューを果たします。それまで日本映画では異業種、たとえ俳優であっても異業種の監督はほとんどいなかったので、佐分利信が監督をすると発表したとき、マスコミは冷やかし半分、俳優の余技だろうと書くわけです。しかし、デビュー作の『女性対男性』でいきなり高い評価を受けます。ただの余技ではないと。それで佐分利信は次々と作品を撮っていきます。佐分利信が監督をして高い評価を受けたことで、すぐ後に山村聰が監督デビューすることになります。佐分利信の監督としての活躍は、田中絹代とか俳優が監督もはじめるきっかけになったんですね。
佐分利信は、1950年の『女性対男性』でデビューしてから1959年の『乙女の祈り』まで、日本映画の黄金期である1950年代に、全部で14本の作品を監督しています。そのなかで、現在、見ることができる作品はおそらく3分の2ていどで、最も評価の高い作品のひとつである1950年の『執行猶予』という映画もプリントが現存していないと言われています。私も見ておりません。監督第二作目であるこの『執行猶予』はキネマ旬報のベストテン作品に入っている作品です。
ちなみに、1950年のキネマ旬報ベストテンがどんなラインナップだったかと言うと、1位が今井正の『また逢う日まで』、2位が大庭秀雄監督『帰郷』、3位が谷口千吉監督『暁の脱走』、4位が『執行猶予』で、5位が黒澤明の『羅生門』です。『執行猶予』は『羅生門』より上なんですね。それから、翌年の1951年の『あゝ青春』『風雪二十年』がそれぞれベストテンの8位と6位で、この年の1位が小津の『麦秋』、2位が成瀬の『めし』です。だから、佐分利信は同時代的には、日本映画の黄金期にベストテンに二本も作品が入る大監督だったんですね。小津や成瀬の代表作と伍する作品を二本もベストテン入りさせているんですから。
そして、出来がちょっと落ちる『広場の孤独』ですが、これはベストテンに入っていません。しかし、1953年のベストテンを申し上げますと、錚々たる作品が並んでいます。1位が『にごりえ』(今井正)、2位が『東京物語』(小津安二郎)、3位が『雨月物語』(溝口健二)、4位が『煙突の見える場所』(五所平之助)、5位が『あにいもうと』(成瀬巳喜男)、6位が『日本の悲劇』(木下惠介)、7位が『ひめゆりの塔』(今井正)、8位が『雁』(豊田四郎)、9位が『祗園囃子』(溝口健二)、10位が『縮図』(新藤兼人)。『縮図』が小津、溝口、成瀬、木下、五所の代表作といっていい作品と並んでベストテン入りするような映画かどうかは疑問がありますけど、もし現代に『広場の孤独』が公開されれば、決して大傑作ではないですけども、確実にベストテン入りすると思います。まあ、キネ旬のベストテンというのは、あくまで参考でしかないので、あまりベストテンに拘泥することはないんですが、当時の評価基準としてはわかりやすいので、もうちょっとベストテンを利用しながら、続けて話します。
現在、佐分利信を監督として評価することが非常に難しいのは、キネマ旬報ベストテンに入った代表作と思われる『執行猶予』『あゝ青春 』『風雪二十年』、そして1952年の『慟哭』のうち、今、見ることができる作品が『慟哭』一本しかないということです。そのほかで比較的見る機会があるのは、『叛乱』という映画です。戦後、日本映画で2.26事件をはじめて描いたのは佐分利信の『風雪二十年』で、これは尾崎士郎の「天皇機関説」が原作です。そして、その2.26事件を正面から描いた作品がこの『叛乱』です。佐分利信は一部で左翼だと思われているようですが、この『叛乱』を撮ったときはマスコミの一部から「逆コース」だ、右翼だという批判もあがって、結局、佐分利は左翼なのか右翼なのかよく分からないのですが、先日、足立正生監督にお会いしたら、佐分利信はわれわれ新左翼のヒーローだったと仰っていました。普通、左翼と言ったら、今井正だとか家城巳代治だとか山本薩夫のように代々木系、共産党系の独立プロの監督なんですけど、足立監督によると佐分利信は新左翼という評価だったらしいです。
それで、監督としての佐分利信の評価が難しいという先ほどの話に戻りますが、比較的見る機会が多い『叛乱』という作品は、新東宝で星野和平が製作した佐分利信の監督作となっていますが、実は佐分利信はほとんど監督していません。撮影の3分の1が終わったとき、佐分利信がややこしい病気に倒れて、危篤状態になったんです。佐分利信は当時、ベストテン入りの監督として高く評価されていたので、この『叛乱』は、製作は東京プロというところですけれど、新東宝の正月映画として制作されていました。それで11月になって、正月まであと一ヶ月強しかないというところで、阿部豊が代打監督に招かれます。佐分利信は監督であると同時に主演でしたから、彼の出演シーンを撮り直さなければならない。タイトルクレジットは、佐分利信が監督、阿部豊は応援監督となっています。
しかし、阿部豊だけでも撮りきれないので、さらに阿部の助監督であった松林宗恵と内川清一郎も招集されて、A、B、Cの三班体制で撮っています。つまり、この作品は四人の監督で撮っているんです。佐分利信の役は佐々木孝丸ですべて撮り直しましたから、佐分利信が演出したのは四日分しか残っていないそうです。代表作のプリントがほとんど残っておらず、比較的見ることができる『叛乱』もそのような事情があるので、今、佐分利信の作家性を語ることは非常に危険です。けれども、その危険性を踏まえた上で、佐分利信監督とその作品について、敢えてお話してみたいと思います。
佐分利信監督の特に初期の作品は、今日ご覧いただいた『広場の孤独』のように、社会性の強い、強いて言えば新左翼的な、後に松竹ヌーヴェルヴァーグが現れるまで映画ではあまり取り上げられることがなかった題材を多く描いています。私は現時点で見ておりませんが『風雪二十年』は天皇機関説を取り上げています。『広場の孤独』ではスターリンの死亡直後の混乱した日本を描き、四日しか撮っていませんが『叛乱』では2.26事件に真っ正面から取り組んでいます。この時期、左翼の今井正や山本薩夫がどんな映画を撮っていたかと言うと、『また逢う日まで』とか『にごりえ』とか、ちょっと突出した作品であっても、『どっこい生きてる』とか『荷車の歌』であるとか、そんな感じの時代ですから、いかに佐分利信が先鋭的であったかお分かりいただけると思います。
ここで、監督としての佐分利信が当時、どれだけ大物だったかというエピソードを紹介したいと思います。日本ではじめてのシネマスコープ映画は東映の『鳳城の花嫁』ですが、実は佐分利信が独立プロで撮ろうとしていた『オレンジ運河』という映画が、日本初のシネマスコープ映画になるはずでした。モノクロ映画です。吉岡達夫という作家の小説が原作で、戦後初の大規模な治水事業として愛知用水を作る、その「プロジェクトX」的な物語と、それにまつわるお金の黒い霧をシネマスコープで描き出すはずでした。しかし、当時の鳩山一郎内閣の河野一郎農相から左翼的な偏向傾向があるとして圧力がかかり、そして、クランクインの5日前にプロデューサーが失踪して、制作が頓挫してしまいました。ちなみに、この『オレンジ運河』の脚本は灘千造です。灘千造という人はもともと新聞記者だったんですが、伊丹万作の門下でシナリオを勉強して、内田吐夢の『たそがれ酒場』でデビューした脚本家です。10本に満たない作品しかなくて、晩年はドヤ街だったか荒川の河川敷だったかで暮らしていたようです。その晩年の灘千造のもとに、森崎東さんと掛札昌裕さんがたずねて行って、脚本のノウハウを聞いたという話を掛札さんからうかがったことがあります。そんな縁もあって、灘千造が死んだとき掛札さんが遺稿集を編集しました。この『オレンジ運河』が実現していれば、灘千造という脚本家の人生も少し変わったのではないかと思います。
『オレンジ運河』が挫折した後に佐分利信は三本の作品を撮りますが、最後から二本目の作品に『悪徳』という映画があります。日本では珍しいフィルム・ノワールです。製作母体が日映といういわくつきの会社なので、少し説明します。今からその『悪徳』のクレジットタイトルを見ていただこうと思います。大映が配給したので最初は大映マークですが、その後に日映のロゴが映し出されます。それから、プロデューサーの名前に注意してください。では、『悪徳』の上映をお願いします。
(『悪徳』の冒頭クレジット部分の抜粋を上映)
はい、ありがとうございました。本編に入ると、佐藤勝の音楽がまるでオットー・プレミンジャーの『黄金の腕』をパクッたような感じで興味深いのですが、それはさておき、日映という会社について説明したいと思います。東宝傘下の記録映画を製作している会社に日映という会社がありますが、それはこの日映とは別会社なので直接的には関係ありません。
東宝争議から生まれた新東宝が東宝から完全に独立するのが1948年です。それから、東京映画配給が太泉映画と東横映画を吸収合併し、社名を東映に改めるのが1951年。そして、日活が映画製作を再開するのが1954年です。
したがって、日本映画の黄金期である1950年代は、製作、配給、興行を垂直統合したメジャー会社だけで六社あったわけです。日活、松竹、東宝、新東宝、大映、東映。それでも、まだまだ市場の余地があると考えた人がいます。大映の専務だった曾我正史です。今、クレジットで名前が出ていた人ですね。彼が永田雅一に辞表を突き出して、製作から興行に至る垂直統合の会社を作ると発表します。日本の映画会社の場合、東宝が阪急、東映が東急、と鉄道と関係している場合が多いのですが――このモデルを作り上げたのは東宝グループの小林一三ですが、曾我正史はまだ映画に手を出していない東京の大きな鉄道会社、京王電鉄をバックに日映という会社を作ると発表します。ところが、京王は資本金を振り込まず、設立発表後、わずか一ヶ月で計画は頓挫してしまいます。政治的な圧力があったようです。
その後、日映は独立プロとして発足し、二本の作品を作ります。第一回製作作品が、『怒りの孤島』という映画で、久松静児監督、水木洋子脚本です。松竹が配給しました。そして、二本目の作品がこの『悪徳』。大映が配給です。このたった二本を製作しただけで日映は解散してしまいました。日本映画史における幻のような会社の作品に、佐分利信が絡んでいるのは非常に面白いことだと思っています。
この『悪徳』の脚本を書いた猪俣勝人という脚本家も面白い人なんですね。佐分利信の監督作品の多くをこの人が手がけています。戦前に松竹に入社して、清水宏の口述筆記から脚本家としてのキャリアをスタートします。戦前にフリー宣言をして、国民脚本社という独立プロを作るんですが、終戦の影響で解散してしまいます。戦後はシナリオ文芸協会を起して、また、各社のシナリオを書き、とくに渋谷実なんかとコンビを組むんですが、それだけに飽き足らず監督にも進出します。しょうもないメロドラマも監督していますが、佐分利信のような社会性の強い作品も監督しています。容疑者のベルギー人の神父が帰国したため迷宮入りした実際のスチュワーデス殺人事件を、『殺されたスチュワーデス 白か黒か』という作品で映画化しています。この作品はいずれ何かの機会に上映してみたいと思っています。
もうひとり、佐分利信作品における重要人物が、星野和平というプロデューサーです。プロデューサーであり、俳優ブローカーでもあります。今はジャニーズ、ホリプロといった俳優、タレントの事務所がありますが、昔は撮影所システムですから、俳優は松竹、東宝といった映画会社に属する社員だったわけです。そのようななか、戦中、戦後の混乱期に俳優のマネジメント業で映画界に一躍台頭したのが星野和平です。もともとこの人の家は質屋です。中野の新井薬師前にあった星野質店の倅です。高等小学校卒業後、呉服商に勤め、白木屋、後の東急百貨店の呉服部員に転じます。その商売のお得意様にマキノ満男の奥さんがいました。営業的な手腕を見込まれたのでしょう、白木屋を辞めて、当時、親父の借金を背負ってマキノ正博が作品を量産していた頃のマキノトーキーに入社します。そこで助手として働いたのが映画界のキャリアのはじまりです。
その後、戦時中、星野芸能社を設立して、杉狂児だとか宮城千賀子とかの地方巡業で大当たりをとります。戦後は食料事情が悪かったので、どんな大スターでも米に不自由していました。ところが、星野和平の実家は質屋で、差し押さえ品として米があり、それ欲しさに彼のもとにスターたちが集まってきました。そして、星野和平は、スターたちの代わりに映画会社と出演交渉し、ギャラを釣り上げることをはじめるんです。戦後すぐの頃、星野和平がどれだけのスターを抱えていたかと言うと、トップは原節子です。原節子は東宝のスターなのに、なぜ小津の松竹作品に出演できたかと言うと、それは星野和平が暗躍したからですね。男優でトップは佐分利信。原節子に続く女優のトップは木暮実千代でしょうか。ほかには高峰三枝子、三浦光子、水戸光子、宇佐美淳、坂本武、飯田蝶子、徳大寺伸などを抱えており、当時の松竹系のスターはほとんど星野和平が抱えていました。
そして、東宝争議が起こると、星野和平は芸研プロダクションを設立します。これは親友の佐分利信が監督をしたいと言うので設立したプロダクションです。名目上は熊谷久虎が社長ですが、実権は星野和平にあったはずで、佐分利信は役員に名を連ねています。盟友の星野和平に会社を作らせて、自分は重役になって、その会社の製作で映画を作る。こうして、佐分利信は創作の自由を確保するわけですね。ただ、芸研プロだけでは映画が製作できないので、太泉映画という会社と提携します。太泉映画の前身は新興キネマ大泉撮影所です。太泉映画は最初、太泉スタジオとしてレンタルスタジオとしてスタートするのですが、後に映画製作も手がけるようになり、太泉映画と芸研プロの製作作品として佐分利信は『女性対男性』と『執行猶予』を撮ります。これらの作品はフィルムの現存が確認されておらず、残念ながら、見ることができません。
芸研プロは基本的に佐分利信に映画を作らせるためにできた会社なのですが、太泉映画が東横映画、東京映画配給と合併して東映を発足させたので、星野和平は赤字体質だった芸研プロをつぶして、東京プロダクションという会社を作ります。東京プロの第一回製作作品は新東宝が配給したマキノ雅弘監督作品『離婚』です。
新東宝は東宝から派生した会社だけあって、プロデューサー・システムを採用していました。たとえば、溝口の『西鶴一代女』はクレジットが株式会社新東宝、児井プロダクション提携作品となっています。これは、新東宝が、児井英生というプロデューサーのプロダクションに発注して、作らせたわけですね。初期の新東宝は外部に発注して、できた作品を買い上げるというやり方で、東宝争議で作品供給ができなかった東宝系の劇場への配給を担いました。ただし新東宝が完全に東宝から独立すると、独自の配給を開始するわけですが、製作スタイルに関しては佐分利信作品でも『慟哭』や『叛乱』はそのようなシステムで制作されています。
そのような新東宝の提携作品として有名な作品に、マキノ雅弘監督、鶴田浩二主演『弥太郎笠』があります。この作品にもいろいろとややこしい裏事情がありまして、鶴田浩二はもともと松竹の俳優だったんですが、独立して新生プロダクションを設立するんですね。この頃はまだ五社協定もなく、俳優の引き抜きや移籍、独立が多く、松竹の俳優だった三國連太郎が東宝の『戦国無頼』に無断出演した際はちょっとした騒ぎにもなったんですが、鶴田浩二も、作品に恵まれていないという思いがあったのか、松竹を辞めて独立プロを立ち上げます。このときに暗躍したのが、またしても星野和平と言われています。鶴田の後、岸惠子も松竹を辞めると言いはじめたこともあって、星野和平に対して、あちこちで引き抜きや移籍工作をしてスターのギャラを釣り上げ、映画界を撹乱している、とマスコミのバッシングが起こります。それに配慮してか、『弥太郎笠』では星野和平が製作としてクレジットされているものの、東京プロではなく、鶴田の立ち上げた新生プロと新東宝の提携作品になっています。星野和平はこの作品の直後、東京プロの解散を発表して、日活のプロデューサーを経て、新東宝の重役になります。大蔵貢が社長になる前の新東宝ですね。星野和平は根っからの映画好きで、映画的な勘はもっていたようです。
猪俣勝人によると、監督、脚本家にすべて任せてくれて、余計な口を挟まない、良いプロデューサーだったらしいんです。ただ、ウォルター・ウェンジャーのような学のある知的なプロデューサーではなく、豪腕、豪傑タイプの蛮人なプロデューサーだったんだろうと思います。新東宝時代の机の引き出しには大人のオモチャが入っていて猥談を好んだ、なんてことを新東宝の元取締役だった辻恭平が述懐しています。
そんな星野和平と、家が近所で、プロダクションまで作ってくれる間柄だったのが、佐分利信です。芸研プロや東京プロ製作作品での創作環境は、ある時期の小津安二郎や黒澤明並みに自由だったのではないでしょうか。残念ながら、現在、見ることができるのは、創作の自由が奪われたスタジオシステムで撮った作品の方が多いのですが、それでも佐分利信の個性はうかがえるかと思いますので、これから作品の抜粋を幾つか見ていただこうと思います。
まずご覧いただく作品は、公開当時、高く評価されてベストテン入りもした新東宝時代の『慟哭』です。星野和平が製作し、猪俣勝人が脚本を書いています。あらすじを少し説明します。佐分利信が主役で、新劇の劇団の脚本家を演じています。病気の奥さんを看病しつつ、日夜脚本を書いていたのですが、その奥さんが死んじゃうところから映画がはじまります。生き甲斐を失った劇作家の前に、阿部寿美子――この人はのちに映画評論家の深沢哲也の奥さんになりましたが――演じる新人女優が現れ、彼女のフレッシュな演技を見て、彼女のために脚本を書くことを決意し、新たな生き甲斐を見出すという物語です。新人女優を発掘し、育てたい気持ちと同時に恋心も芽生える。シドニー・ルメットの『女優志願』とか、そのオリジナルである『勝利の朝』とか、そんな作品に似た物語です。
新人女優を一人前にするために、木暮実千代が演じる劇団のスター女優に預けて女優修行をさせます。木暮実千代と佐分利信には、亡くなった奥さんと三角関係だった過去があります。普通の映画であれば、木暮実千代にしごかれた新人女優が、佐分利信の書き上げた芝居でスターになっていく展開でしょうが、この映画は少し変わっています。この女優は、木暮実千代に少ししごかれただけでもう嫌になってしまい、三橋達也が演じる若い演出家とできてしまって、さっさと女優を辞めてしまうんですね。では、その最後のクライマックスからラストまでをご覧いただきます。
(『慟哭』の抜粋を上映)
はい、ありがとうございます。少し異様な演出ですよね。大の中年男が若い女に振られて、泣く。佐分利信の作品では、男が女によく振られる。いわゆる悪女もよく登場する。さきほどご覧いただいた『広場の孤独』もそうでした。『慟哭』では公開当時、あの原稿を投げ捨てるラストが批判されたそうです。作家が書き損じ、頓挫した原稿をあのように投げ捨てたりするはずがないと。
次に東宝で作った『愛情の決算』という映画をご覧いただきます。作品全体の出来は普通だと思いますが、これからご覧いただくシーンには、先ほどの『慟哭』の抜粋のような異様さが感じられます。
これも先にあらすじを説明します。佐分利信と原節子の夫婦に子どもがいます。実はその子どもは原節子の連れ子で、佐分利信と血が繋がっていない。原節子は夫に先立たれて、佐分利信と再婚したんですね。そして、複雑なのは、原節子の前の夫と佐分利信は、南方の戦線で一緒に戦った戦友だということです。映画は、佐分利信と子どもが、銀座で原節子を偶然見かけるところからはじまります。原節子は浮気をしていて、その相手である三船敏郎と一緒なんですね。佐分利信はそれを見てしまう。その三船敏郎も原節子の先の夫と同じ部隊にいて、佐分利信と上司部下の関係で知人同士であることが、映画を見ているとだんだん分かってきます。それでは、見られたことを知らずに帰宅した原節子を、佐分利信が問いつめるシーンを見ていただきます。三分間ぐらいです。佐分利信の映画には、フランス語の「コキュ(cocue)」、寝取られ男の主題があるように思うのですが、まずは抜粋を見ていただきましょう。
(『愛情の決算』の抜粋の上映)
はい、ありがとうございます。アップの使い方がすごいですね。普通は原節子が部屋に入ってきて、家のいる佐分利に「帰りました」と挨拶するとき、彼女を映すと思いますが、そのショットがまったくない。浮気に耐えている佐分利信のアップで、原節子の存在はオフの声だけ。切り返しがない。これ、佐分利が自分で演出して、自分で演じているわけですよね。こういう寝取られ男を自分で演じて、屈辱に耐えている自分の顔のアップを撮らせる。異様ですね。その後の原節子のアップもちょっと異常な感じです。寝取られ男を自分で嬉々として演じ、また同時に自分が演じている主人公をそのように追いつめていくというか、自分をバカにするように妻に仕向けているかとしか思えない。
次にご覧いただくのは『夜の鴎』という東宝で撮った作品です。佐分利信は画家で、久慈あさみがその妻です。彼女はデザイナーで、バリバリのキャリアウーマンという設定です。あとはご覧いただければと思います。佐分利信が実に変なキャラクターを演じています。
(『夜の鴎』の抜粋の上映)
はい、ありがとうございました。ここでも自虐の極みのような振る舞いを嬉々と演じている。鏡、ガラスなど矩形に対する美学的なこだわりも見られますが、何よりも、やり手の奥さん、悪妻に馬鹿にされてシーツだか毛布だかをバッとかけられる、あそこが強烈ですね。それだけでもかなり屈辱的ですが、その姿を獅子舞に見立てて踊りはじめたときは、さすがに私もその卑屈な態度にショックを受けました。この『夜の鴎』は新珠三千代が主人公で、一見、普通の東宝映画なんですが、最近見直したら、新珠三千代の結婚相手が次々と死んでいく、まるでシャーリー・マクレーン主演の『何という生き方!』のようなブラック喜劇を、王道の東宝タッチで大真面目に撮っている変な映画でした。物語は田中澄江のオリジナルなんですが、チェーホフの短篇にインスパイアを受けているとのことです。
しかし、作り手の個性がここまで強烈だと、やはりその露悪的というか自虐的個性に注目せざるをえないし、自分で脚本は書きませんが脚本家が大体同じ人で、プロデューサーも自分の思うままに働いてくれる人、つまり猪俣勝人であり、星野和平です。そしてその監督としてのキャリアの大半は作家的な自由を保障される独立プロ――それも既存の独立プロではなく、星野和平を介して芸研プロや東京プロを作ってもらい、そこで監督したり、新劇が映画製作を始めるとそこで監督を依頼されたりして、作りたいものを作りたいように自作自演で作っていた。となるとこれはアンドレ・バザンが唱えた意味での「作家の映画」と言わざるをえないですよね。そこで佐分利信の作家性とは何かと申しますと、マゾヒズム、しかもそれを自ら演じる自虐性がその根幹を成していることだと思います。
『広場の孤独』だと、社会的な題材を扱いながらも、今井正や山本薩夫の映画のように、社会の歪みを正すだとか告発するとか、あるいはその当時の日本共産党が提唱した歌声運動を広げようといったテーマはない。ある状況下で押しつぶされていく人間を描く。しかも、それを自分で嬉々として演じている。そして、そのサイド・ストーリーで奥さんに裏切られる。苦しめられながら破滅していく。そういったことは『広場の孤独』以外の佐分利信の映画でも見てとれます。
女性不信という特徴については、先ほどタイトルだけご覧いただいた『悪徳』が典型的です。佐分利信が悪徳金融業者みたいなことをやっていて、手形のパクリをやったり、企業に請われてスト破りをしたり、暴力団まがいの活動をしている。佐分利信の部下が木村功。木村功の愛人が水谷良重。現・二代目水谷八重子ですね。彼女の親父さんの手形を、木村功が佐分利信に命じられてパクる。けれども、パクった後、サルベージしなければ手形パクリは成立しないのですが、木村功はそれに失敗してしまう。佐分利信はその失敗を許せなくて、木村功を拷問する。足の指の爪をバーナーで焼くんです。もう完全にフィルム・ノワールのノリです。木村功は、足の指を焼かれた恨みに、佐分利信の妻である大塚道子を誘惑して姦通しようとします。それは結局成功しないのですが、佐分利信は部下の木村功が妻と関係をもったと勘違いして、木村功を殺して、自分も自殺する。日本映画では珍しい、とんでもない救いのないフィルム・ノワールですね。この映画の中で大塚道子扮する妻は悪女ではありませんが、佐分利自身は妻が浮気したんではないか、という強迫観念にとりつかれている。後半の展開は手形のサルベージなどの悪事なんかどうでもよくなって、拷問された木村功の復讐心と佐分利信の強迫的な妻への不信という主題が前面にせりあがってきて、それ自体が実は描きたかったのではないかと思われるほどに存分に描かれています。このへんも佐分利信らしいですね。
ちなみに、実際の佐分利信はどうだったかと言うと、非常に愛妻家で、松竹以前の日活在籍時に日活の女優と結婚して、そのために日活を追われて松竹に入ったらしいのですが、死ぬまでその奥さんひとすじで、奥さんが亡くなったときは俳優をやめると言ったぐらいだったらしいのです。なのに、なぜ女性不信を描き、寝取られ男ばかりを演じたのか。不思議ですが、扱うテーマが骨太の社会派的な題材というか、歴史の再検証のような体裁をとっているので、ついそちらに目が入ってしまうんですが、本当はもっと個人的なこと、つまりたぶん彼が、同時代の、川崎長太郎や嘉村礒多といった、日本独特の自然主義的な私小説に慣れ親しんでいたからじゃないかとも思います。先ほど皆さんにご覧いただいた『慟哭』のラスト近く、阿部寿美子にフラれた、年の離れた劇作家が自宅に帰って、いい年なのにおろおろとみっともなく泣くシーンがありましたが、田山花袋の『蒲団』そっくりですね。
おそらく俳優・佐分利信のパブリックなイメージは、無口で誠実、質実剛健、頑固、男っぽいというものだと思います。それは彼が松竹三羽烏として一緒に売り出された上原謙、佐野周二と比べると明らかにそういう個性が際立って描かれているので、よくわかります。少なくとも戦前、彼が演じた役の多くはほとんどこのパブリック・イメージの延長にあります。
ところが、佐分利が監督した作品に顕著である、妻にバカにされ、ないがしろにされるというキャラクターとの差はいったいどうしたわけなんでしょう。しかしこの個性を、早い時期に見抜いていたのじゃないかしらんと、あとからですがああそうだったのかと思わせる、ある監督の映画があります。小津安二郎の『お茶漬の味』という映画です。この映画では、佐分利は妻の木暮実千代に「鈍感さん」と陰で呼ばれ、凡庸であることをすごくバカにされていて、妻は勝手なことばかりやっている。ところが最後で妻が反省し、夫婦でお茶漬けを食べて、佐分利が「夫婦とはこのお茶漬の味なんだ」と諭す場面で終わります。晩年に至っても、佐分利信はやくざの親分とか重役とかそういう役が多くて、寡黙で重厚な演技でそうした役柄をこなしていましたけど、実はこの『お茶漬の味』で演じた役こそが、佐分利監督作で自分が演じた役――それは必ずしも彼の自画像ではないにせよ、そこから透けて見える彼の人生観、すなわち彼の作品を特徴づける作家性の表れじゃないかと思うんです。
佐分利信の映画のマゾヒズムと自然主義というのは、ディープな日本映画ファンの間ではかなり話題になっているというか、以前から有名な主題なんですね。『広場の孤独』にしても、天皇機関説を描いた『風雪二十年』にしても、それから病気で降板したため、演出にはほとんどその痕跡はないですけど、企画段階から関わった『叛乱』にしても、いってみれば、それは敗残者の歴史なんですね。佐分利信は日本の戦後史を自分の性癖に引き付けてマゾヒズム史観で捉えなおし、それを口実にして実はグチュグチュした私小説をやっている映画監督であるといえると思います。
まだ監督としての佐分利信に関して未知数の部分が多いのですが、今後、佐分利信の監督としての才能を広くみなさんに知っていただくこととともに、私も未見のものが多いので、ふいに見られない作品がどこかで上映されないかなあと秘かに思っています。そのことで佐分利信監督の作家性がより具体的に検証できたらよいなあと思っています。ありがとうございました。