アテネ・フランセ文化センター

講演「レゾ・チヘイーゼについてーー特集 グルジア映画の世界」

1996年12月3日

篠崎誠(映画作家)

篠崎と申します。僕がチヘイーゼの映画に最初に出会ったのは7年か8年前の香港国際映画祭で、そこでグルジア映画の回顧展をやっていたんですね。グルジア映画は1920年代が第一期の黄金時代と言われているんですが、1928年に制作されたニコライ・シェンゲラーヤの『エリソー』とか、それと同時期に作られた『小さな赤い悪魔』『私の祖母』などが上映されていて、あと第二の黄金期と言われている50年代以降の作品、それからカンヌで受賞したばかりのテンギス・アブラーゼの『懺悔』とかも上映されていました。ですから、無声映画期から80年代後半の作品に至る20本ぐらいのグルジア映画が立て続けに上映されたんですね。そのなかで僕がとりわけ感動したと言いますか、ぶっ飛んだのはレゾ・チヘイーゼともうひとり、今では日本でもすっかり有名になったパラジャーノフでした。『火の馬』は三百人劇場の「ロシア映画の全貌」で観ていたのですが、それ以降の作品に関しては、日本はおろか世界でもずっとなかなか観ることができない状況だったんです。それがペレストロイカの絡みで解禁になり、何本かの作品を観ることができて、非常に心を揺さぶられました。

まず、チヘイーゼという人についてお話をさせていただきます。この人は1926年12月8日生まれですから、今年でちょうど70歳ですね。今日が3日ですから、5日後に70歳の誕生日を迎えます。分かりやすく言うと、大正生まれですね。長編映画デビューは『青い目のロバ』という作品で、テンギス・アブラーゼと一緒に監督したんですけれども、アブラーゼとはもっとずっと若い頃に出会ったみたいです。ふたりはエイゼンシュテインの『イワン雷帝』に熱狂して、ぜひ撮影隊に加わらせてほしいとエイゼンシュテインに手紙を書き送ったらしいのですが、第二次世界大戦が勃発していましたので、そういう状況で映画を作ることの不自由さについてエイゼンシュテインから諭されるような手紙が送られてきたそうです。チヘイーゼとアブラーゼはトビリシのショタ・ルスタヴェリ演劇学校を卒業した後、VGIKと言われるモスクワ映画大学に入学します。そこでミハイル・ロンムやセルゲイ・ユトケーヴィチのもとで映画を学んだようです。チヘイーゼは、1953年に最初の短編映画を作っています。『ボリス・パイチャーゼ』という作品で、ボリス・パイチャーゼというのは有名なサッカー選手だそうです。それから、同じ年に、音楽家のアラキシュヴィリという方を題材にした短編ドキュメンタリー『ディミトリ・アラキシュヴィリ』をアブラーゼと共同監督しています。続けて、『私たちの会館』という青少年文化センターという所のドキュメンタリーを撮って、翌年に『グルジア音楽舞踏アンサンブル』という、題名のとおり、グルジアの舞踏団を記録した短編映画を発表しています。『私たちの会館』も『グルジア音楽舞踏アンサンブル』もアブラーゼと共同監督です。そして、55年に世界的に有名になった『青い目のロバ』という映画をアブラーゼと共同で監督します。これはカンヌ映画祭で最優秀短編映画賞を受賞しています。

30年代以降のロシア・ソビエト映画にはスターリズムが席巻していて、映画をどう作るかよりも、イデオロギーを伝えることの方が先に立った映画作りが凄く多かったんですね。でも、これはアメリカ映画の50年代とちょっと似ていますが、ロシア・ソビエト映画も50年代半ばぐらいから、撮影所の叩き上げの人たちではなくて、大学出身のインテリの人たちが一斉に映画を作りはじめて、映画の感じが少しずつ変わってきます。その先鞭をつけたのが『青い目のロバ』という映画なんですね。原題は「マグダーナのロバ」と言います。マグダーナさんという未亡人が主人公で、女手ひとつで三人の子どもを育てなくちゃいけない。凄く貧乏なんですけど、路上で死にそうな一頭のロバを見つけて、手厚く看病するんですね。それで、やっと元気になったので仕事を覚えさせようとしたら、持主と名乗る人が現れて、裁判になるんです。結局、裁判に負けて、そのロバを取られてしまいます。物語を要約すると社会主義的リアリズムと言われてお終いなんですけど、実際に映画を観ると、あるイデオロギーに収斂しちゃうようなものではなくて、映画としての豊かさがもの凄くあるんですね。50年代終わりから60年代のフランス映画とかイタリア映画の青春ものみたいな息吹のある映画です。エルマンノ・オルミというイタリアの監督が50年代末から60年代初頭に撮った『時は止まりぬ』とか『婚約者』『就職』という非常に瑞々しい青春映画がありますが、そういうのとちょっと似ています。フランス映画で言えば、ジャック・ロジェ監督の『アデュー・フィリピーヌ』みたいな感じでしょうかね。ネオリアリスモっぽいところがあって、役者じゃなくて本当の農民を使っているんじゃないかと思うんですが、実際の農場にカメラを持ち出して映画を作っています。急にロバが逃げ出して、それを追いかけていくと不意にもの凄い嵐が吹き荒む場面とか、画面を観てもらうしかない、言葉で説明するのが歯がゆいシーンがたくさんある映画なんですね。

この映画の大きな特徴として、主人公は一応マグダーナさんですけれども、子どもたちとか脇役の村人ひとりひとりを凄く丁寧に追っていくんですね。エイゼンシュテインが『戦艦ポチョムキン』とかで群衆を構成しているひとりひとりをちゃんと捉えていったように、脇役のちょっとした仕草とか表情を拾っていって映画に広がりをもたせています。一時期のハリウッド映画は得意としていたんですが、今、そういうことができる監督はハリウッドにもいなくなっちゃって、つい先だっても『インデペンデンス・デイ』を観たんですが、登場人物があまりにも、何と言うか人形のようにしか見えなくて、ハリウッド映画もここまで来てしまったかという感じがしました。『青い目のロバ』はそれとは本当に真反対で、ワンシーンしか出演していなくても、その人の顔とか仕草が印象に残るんです。今日、『戦火を越えて』を観ていただきましたが、お父さんが戦地に行くために馬車に乗るシーンで、馬車を運転している男性がちらっと映るんですけれども、彼が実は足が不自由だったということは最後のショットで分かるわけです。それから、同乗するおばさんの表情とかそういうものを丹念に丹念に追っているんですね。これからご覧いただく『ルカじいさんと苗木』には、ここであまりいろいろ言っちゃうとまずいのですが、大好きなシーンがあって、乗合バスのなかで、苗木を探しているおじいさんとアメリカから来た農民のおじいさんが話をしているうちに合唱になっちゃうんですね。歌合戦のような感じですが、乗客ひとりひとりの表情が凄く生き生きと捉えられているんです。単に物語のテーマが立派だとかそういうことではなくて、そういう細かい描写の積み重ねが映画に幅をもたせている気がするんです。

『ルカじいさんと苗木』も『戦火を越えて』もそうなのですが、主人公が農民だったり、畑を耕したりするんですね。『青い目のロバ』でもやっぱり農民の暮らしが描かれます。非常に雑駁な印象ですけど、チヘイーゼの映画を観ていると小川紳介というドキュメンタリー作家のことを不意に考えてしまうんです。小川さんは三里塚で闘争映画を撮って、農民をずっと追っているうちに、農民が命を賭けて守っている大地、土とは何だろうということを考えはじめて、やがて東北の寒村に入って、ついには田畑を耕しはじめて、米を作りながら映画を撮り続けたんですね。その小川さんの映画とは撮り方はまったく違いますが、チヘイーゼも、たとえば大地なら、「母なる大地」といった抽象的、象徴的な捉え方ではなく、小川さんのように具体的に土を見ているように思うんです。『戦火を越えて』に、ぶどう園を潰そうとする戦車を必死に止めるシーンがあります。また、地雷原のなかで、雪の下に土塊が見えて、戦火で大変な状況、命がどうなるか分からない状況にもかかわらず砂をいじって故郷を思うシーンがある。そういう社会主義リアリズムには収まらない何かが、チヘイーゼの映画には太く太く流れているように思います。

フィルモグラフィーの方に話を戻しますと、『青い目のロバ』がカンヌで受賞した後に、『わが団地』という映画を撮ります。私はこれを香港で観まして、その話は後ほどいたします。それから、60年、61年に18世紀のコスチュームプレイものみたいな作品を撮って、63年に『海の軍備』という映画を撮り、そして64年が『戦火を越えて』になります。その後、ちょっと間が空いて、69年に『ああ素晴らしき青春』という映画を撮る。『海の軍備』『戦火を越えて』『ああ素晴らしき青春』で、第二次世界大戦を舞台にした対独戦の三部作だそうです。残念なことに、私は『戦火を越えて』しか観ていないので、『海の軍備』『ああ素晴らしき青春』がどういう映画なのかは想像するしかありません。その後、また少し間が空いて73年に『ルカじいさんと苗木』を発表します。その次が80年の『大地の子』という映画で、また7年間も空くんですね。

この間、いったい何をしていたんだろうと思っていたのですが、一年ぐらい前に国際交流フォーラムで「ロシア・ソビエト映画祭」が開催されていて、そのときにモスクワ映画博物館館長のナウーム・クレイマンさんとお話をする機会があったんです。ぼくは去年のロカルノ映画祭の「ゴダール・シンポジウム」で、ナウームさんをお見かけしていました。記者会見場の最前列で机の上に座ってゴダールの写真をずっと撮っていたのですが、パネラーのなかでひとりだけいい顔をしているおじさんがいるなと思っていたら、そのひとがナウーム・クレイマンさんだったんですね。ゴダール以外にパネラーが五人くらいいたんですが、ほかの人は無視して、ナウーム・クレイマンと通訳をされていたとても目のきれいな女性のふたりをフレームに入れて、パチパチ写真を撮りました。

「ロシア・ソビエト映画祭」でナウームさんにその写真を渡したら、なんとその通訳者がフランスに留学されていたナウームさんの娘さんだということが分かりました。しかも、ナウームさんは私たちが作った『おかえり』という映画をギリシャの映画祭でご覧になっていたんですね。それで話が弾んで、その勢いでレゾ・チヘイーゼは70年代以降どうされていますか、とお聞きしたんです。チヘイーゼは、73年の『ルカじいさんと苗木』以降、80年に『大地の子』を撮って、それから85年から88年にかけて、スペインと合作で『ドン・キホーテ』という全九部の長大な作品を撮っています。80年の『大地の子』も後編に分かれているそうですが、その前後作と九部作を各一作品と考えると、80年代以降は二本しか撮っていない。

ナウームさんによると、1973年以降、チヘイーゼはグルジアのフィルムスタジオで所長をされていたそうです。それまでは、新人監督がデビューするためには中央に一々お伺いをたてて、事を進める必要があったのですが、それではなかなか新しい人材が抜擢されないので、「デビュー」とかいうセクションを設けて、若い人たちを後押しされていた。また、80年代後半からは、ゴルバチョフ書記長時代のシュワルナゼ外相と組んで、ペレストロイカを映画界でも進めていたようですね。上映禁止になっていたソクーロフの作品を解禁したり、『田園詩』で共産党に睨まれたイオセリアーニのフランスへの亡命を仲介したりしたそうです。イオセリアーニは今、フランスを拠点に映画を撮っていて、ウィリアム・リュプシャンスキが撮影を担当した新作『群盗、第七章』がダンケルク映画祭に出品されていました。ぼくも自分の映画をその映画祭に出品していたので、イオセリアーニの舞台挨拶を見にいったんです。本当に若々しくて、かくしゃくたる感じで、奥さんを伴って、ぼくはフランス語は全然分かりませんが流暢なフランス語で挨拶をされていました。パラジャーノフの釈放にも関わっていらしたらしく、チヘイーゼたちのおかげで、パラジャーノフは晩年、出国も許可されて、グルジア、ロシア以外の人とも交流して、自分の映画について語る機会を持てたようです。

話がズレますが、パラジャーノフの『スラム砦の伝説』とか『アシク・ケリブ』とか、フォークロアをシュールレアリスム的なタッチで描いたという評判だったんですけれども、実際に観てみたら、ほとんど「オレたちひょうきん族」か「ひらけ!ポンキッキ」みたいなノリで、どこまで本気か分からない映画ですよね。いや、たぶん凄く本気だと思うんですけれども、一生懸命踊っていたエキストラが、フレームから外れたと思ったのか、カメラが移動すると踊るのを止めちゃったりする。非常にいい加減なんですけど、そういう大らかな出鱈目な感じと、グルジアで長年伝わってきた伝説が上手い具合に結びついて、ギャグ映画スレスレですけど、観ているととても清々しい気持ちになって、本当に元気が出てきます。

実は、ダンケルクで『おかえり』を上映した後、60歳ぐらいのおじいさんがつかつかと寄ってきて、日本の兄弟とか言われて、いきなり抱きしめられたことがありました。そのおじいさんとお互い下手な英語で何とか話をしていたら、俺はパラジャーノフの手伝いをしたことがあるんだって言うんですよ。またいい加減なことを言って本気かよって思っていたら、俺の映画を観ろと言って、鞄から一冊のアルバムを取り出したんです。ロシアの風景に不思議な民族衣装のような服を着た女性がオーバーラップしている写真とかが、いっぱい貼ってある。コンピューター・グラフィックスですかとお聞きしたら、いや、切って貼ったんだと言われて、よく見たら本当に切れ目があるんですね。ローテクの極みですが、凄く良い写真なんです。それで、どうしても見せたいスライドがあるから10分待ってくれと言われて、結局、1時間くらい待たされましたが、音楽を流しながらスライドを見せてくれたんですね。本当に『スラム砦の伝説』の頃のパラジャーノフが何枚も写っていて、そのおじいさんも民族衣装に身を包んだ格好でパラジャーノフと一緒に写っている。音楽を流しながら、自分でスライドを映写して、なおかつ画面の前で踊ったりしているそのおじいさんを見ながら、こういう人まで惹きつけるパラジャーノフは摩訶不思議な人だったんだろうなあという気がして、生前にお会いできなかったことが本当に残念に思いました。

そんなパラジャーノフの作品が日本でも今、ちゃんと観ることができるのは、もちろんペレストロイカのおかげですが、チヘイーゼの活躍も大きいはずです。70年代以降のチヘイーゼは、もしかしたら一、二本の作品を作る以上にもっと大きなことを成し遂げたのかもしれないとも思っています。でも、70代でも現役の監督さんは世界にたくさんいますし、やっぱり新作を観てみたいですね。ナウームさんによると、70年代以降は創作意欲を若干喪失されているそうです。近作について芳しくない評もあるようですが、私は『大地の子』も『ドン・キホーテ』も観ていないので本当のところがどうなのかは分かりません。ただ、『ルカじいさんと苗木』を観ると、60年代の『戦火を越えて』とは何かが若干違っている。何かが決定的に変わった気もします。ご存知のとおり、映画は監督がひとりで作るのではなく共同作業です。『ルカじいさんと苗木』を観ると、70年代以降、レゾ・チヘイーゼの意を共有できるスタッフや俳優の層が薄くなったのかもしれないという気がします。

『戦火を越えて』の主人公のおやじさんは存在感が凄くて、あの存在感が映画の力になっているのですが、『ルカじいさんと苗木』の主役の役者さんは、若干線が細いんですね。それをメイキャップと、ちょっと新劇調の演技で補おうとしているように見える。ムルナウの『最後の人』の主役のエミール・ヤニングスなんて、芝居がいつもあまりにも濃くて、演技が目一杯で、僕はちょっと付いていけない。名優だとは思いますけど、ぼくの趣味ではない。そのヤニングスに近い演技の質なんですね。そういう芝居をそのまま使って感傷的な表現になっているところもありますけど、編集や、歌を歌わすことで上手い具合に芝居を抑制して、映画を成り立たせているように思います。

先ほど上映した『戦火を越えて』でも、歌は重要なキーでしたね。『青い目のロバ』でも子守唄が大きな役割を果たしますし、『わが団地』でも歌が流れる。チヘイーゼ監督は、映画における歌の力、音楽の力を信じているように思います。私が観たのはたった四本に過ぎませんが、他の作品でも必ず一回は主人公に歌を歌わせているんじゃないかと予想しています。あと、『ルカじいさんと苗木』の主人公のおじいちゃんがかつて惚れていた女の名前が「ツツノ」なんですが、『わが団地』の主人公がやっぱり「ツツノ」という名前なんですね。チヘイーゼ監督の思い出の女性の名前なのかなあと邪推したくなっちゃうんですが、そのくらい『わが団地』のツツノさんの登場場面が良い。演じているのは、ソフィコ・チアウエリというパラジャーノフの映画によく出演されている人ですね。『ざくろの色』でサヤト・ノヴァという詩人の成人してからを、男性役ですが、演じています。『わが団地』では、街なかを走る市電のような電車の窓から半身を乗り出して、顔一杯に風を受けて、髪をなびかせながら笑顔で登場する。その瞬間に、この映画にノッたと思いました。

チヘイーゼの作品は、テーマが重くても映画があまり窮屈にならないんです。『わが団地』は、幼なじみがお互い愛し合っていたことに気づく物語なんですが、最後のシーンで、ゲオルギー・シェンゲラーヤが演じる主人公が屋根の上でアンテナか何かを修理していると、チアウエリが演じるヒロインがやって来て、団地を見下ろしながら、風に吹かれつつ、話をはじめる。それまでカメラは比較的、地上に近い位置にあるのですが、そこではじめて高い位置からふたりを見下ろし、団地も視界に入れた俯瞰の撮影になるんです。その空間が不意に広がった感じが凄く良い。

『戦火を越えて』のラストでも、三階に上っていくと建物が吹き飛ばれて、ちょうど屋上みたいになって、そこで瀕死の息子と父親が再会します。息子の全身が俯瞰で撮られることで、ふたりが別れ別れになった時間の長さが説得力をもって表現されていました。なおかつ、そこでそのふたりだけにカメラが寄っちゃうんじゃなくて、それを呆然と見ている三人の兵士の姿が短くインサートされるんですね。『戦火を越えて』を見ていると、こういう兵士たちの顔を自然と覚えてしまう。今のハリウッド映画だと、これ、誰だっけ? と思う前に、爆発して死んでしまうはずです。その意味では、チヘイーゼ監督はサイレント映画から培われてきた映画の王道の作り方を踏襲しているのかもしれませんけれども、歌の要素だったり、生の風景を取り入れたりして、そう一筋縄ではいかない。

最近、物語を語る時代は終わったとか、物語から逸脱する映像を見せろとか、そういうことを批評で書く単純な人たちがいて、ヴェンダースやゴダールの映画を念頭に置いているのかもしれませんが、映像というのは観る人の気持ち次第で幾らでも物語を読みとることは可能なので、本来は物語から逸脱した映像なんてそう簡単に言えないはずです。また、その映像は、本当に微妙な差で見えてくる世界がまったく変わってしまう。例えば、一輪の花をロングショットで撮ると健気な感じがして、形が分からないくらいクロースアップにするとその鮮やかな色ばかりが目につく。カメラの位置を5センチ下げると、その花の下の茎にとまっているてんとう虫の方に注目してしまうかもしれない。チヘイーゼはそういう映像、具体的なショットと向き合いながら、映画の物語とは何かということを考え続けてきたように思うんですね。チヘイーゼの映画は、特に審美的な構図の拘りがあるわけではありませんが、上下の空間とか奥行きを使って、地面の土の感じとか、雪の冷たさとか、風の気配といったものを丹念に映画に導き入れているように思います。

それから、チヘイーゼの映画はドラマ構成が本当にしっかりしているんですね。伏線も張りますし、起承転結と言うか、最初と最後が上手い具合に繋がってくる物語を語る。最近はシナリオを軽視する風潮もありますが、シナリオもカメラのフレームと同じように世界に対する眼差しだと思うんですね。映画で描けることはたかだか数時間です。何を描くか、切り取るかということは、シナリオの大きな仕事だと思います。物語の完成度があまりにも高くて、ハリウッドの娯楽映画ギリギリのところもありますけど、物語ることを恐れていない強さがあります。

ちょっと前に村上龍が物語について書いたちょっと面白い文章を読んだんです。ちなみに、村上龍の『トパーズ』という映画は、観客動員は良かったものの日本ではまったく評価されていませんが、イタリアのタオルミナ映画祭で最優秀監督賞を受賞しています。そのときの審査委員長はサミュエル・フラーで、フラーが『トパーズ』をとても気にいったという話を人づてに聞きました。好きな映画かと聞かれると困るんですが、ぼくも『トパーズ』のあの不気味な空虚さは気になっていて、ずっと尾をひいています。その村上龍はキューバ音楽が好きで、それについてのエッセイをたくさんものにしているんですが、『トパーズ』を撮った直後ぐらいに、キューバ音楽が持っているエネルギーはエッセイでは絶対に伝わらないと書いていたんですね。じゃあその音楽のエネルギーを伝えるためには何が必要かと言うと、それは物語だと書いていたんです。

それってそうなんじゃなかなという気がしています。ぼくらの生活には物語的な起承転結はなく、ただ楽しいことと嬉しいことと悲しいことが数珠つなぎにめまぐるしく回っているだけです。また、映画の映像のフレームのなかで描けるのはたかだか90度くらいですよね。特殊なレンズを使えば180度くらい入りますけれども、それでも作り手の主観によって区切られた世界に過ぎない。それはドキュメンタリーでも同じです。だから、リアリズムと言ったところで、現実そのものとはちょっと違うわけです。時間的にもフレーム的にも限定された映画が現実に対抗するリアルさを獲得するために、物語というものが発明された気がするんです。でも、ただ物語をきれいに語れば良いということではなくて、物語を語っていくなかでそれに収まらない何かが表れてきたときに、映画ってはじめて面白くなる気がします。『おかえり』もそう誤解されたりしますが、ぼくはミニマルな映画はあまり好きじゃない。淡々としているからリアルだというわけではなくて、映画にはリアルな波瀾万丈もあるはずで、ときどき失敗したりもするんでしょうけど、チヘイーゼはそういう物語や映画の困難さと向き合い続けている気がします。そういう意味で、ぼくのグルジアのおじいちゃんという感じがして、親近感があるんです。今もグルジアのフィルムスタジオの所長をされていると思うので、一度お会いして話をしてみたいなあ思っています。これからぼくが映画を作っていく上で、絶対に重要な話を聞くことができるはずです。では、そろそろお時間になりましたので、この辺で終わらせていただきます。失礼いたしました。