ケンタッキー州フォートノックスの基地で行われる新兵を育成するための基礎訓練の様子を描く。行進や格闘、射撃や銃の使い方を学ぶ教練、生活指導、イデオロギー教育やカウンセリング等々を通して、まだ子どもっぽさの抜けない若者が兵士に仕立て上げられていく。ベトナム戦争の最中に撮影された。
テネシー州メンフィスにある少年裁判所を撮った作品。罪を犯した少年を裁く訴追側や裁判官だけでなく、少年側に立つ弁護士やソーシャル・ワーカーにとってでさえ、各事件はあくまで膨大な日常業務の流れの中にあるという事実が冷静に積み重ねられてゆく。次々に捌かれてゆく事件の合間で、裁かれる少年の切実な表情が目を射る。
霊長類に関する研究の先駆的な施設として知られるヤーキーズ霊長類研究所で撮影。猿を使った様々な動物実験が、その研究の目的や意義はほとんど説明されないままに、次々と映し出される。虐待と見誤りかねない数々の実験の映像は、故意に研究所を貶めたとする人々と、生体実験に反対する人々との間に激しい議論を巻き起こした。
ニューヨーク市のウェイヴァリー福祉センターを舞台に福祉行政のありようを描いた作品。住宅問題、失業問題、医療問題、幼児虐待などの児童問題、老人問題など、多様な問題と係わる福祉システムの性質を検証し、福祉活動家の置かれている状況、受益者の問題、福祉の本質などを浮かび上がらせる。
野の草を食む「牛」はいかにして「肉」となるか。牛がトラックで牧場の外へと連れ出され、巨大精肉工場で製品化され、市場に送り出されていくまでの全工程を記録する。「牛」が徹頭徹尾「肉」として扱われるこの場所で、細分化された各工程が一分の狂いもなく進行する過程を、的確な映像と編集のリズムによって映し出していく。
永年、事実上アメリカの植民地だったパナマ運河地帯。1977年にカーター大統領は新運河条約を締結し、運河を米パ両国で共同管理することを決めた。政府関係者、軍人、ビジネスマンなどなど、この地帯で暮らす様々な“アメリカ人”の生活が描かれる。同地帯は1999年12月31日にパナマに完全返還された。
1973年10月第四次中東戦争が終結し、第二次シナイ協定に基づき、エジプトとイスラエルの間のシナイ緩衝地帯に米国シナイ半島監視団が置かれた。灼熱の砂漠の中の小隊。“アメリカの外のアメリカ”として“アメリカらしさ”が奇妙に凝縮されたこの場所を、ワイズマンは広大な砂漠のごく小さな一点として映像に収めている。
東西対立時代に毎年行われていたNATOの秋季大演習に密着取材し、その全貌を記録した作品。この作品の撮影が行われた1978年の演習は北極海から地中海までの加盟国全域に渡る大規模なものだったが、特に演習が集中したのは旧東ドイツとの国境近くであり、第三次世界大戦を想定したデモンストレーションと見なされ、国際的に大きな波紋を呼んだ。この作品からジョン・デイヴィーが撮影を担当している。
ニューヨーク市でも最高のモデル事務所であるゾリ・マネージメント社を舞台に、化粧品やデザイナーズ・ブランドのCM、ファッション・ショー、広告などの仕事をする男女のモデルたちを追っている。彼らを取り巻くエージェント、カメラマン、撮影スタッフやデザイナーなどの姿を通してファッション・ビジネス界のありさまが描かれている。
1907年の開店以来、高級百貨店として揺るぎない地位を築いてきたニーマン=マーカス百貨店テキサス州ダラス本店。1982年のクリスマス・シーズンにおけるニーマン=マーカスを舞台に、訪れる客や接客する従業員、華やかな売場の舞台裏で働く人々の姿が映し出される。ワイズマン初のカラー作品。
世界屈指のサラブレットの競馬場、ニューヨークのベルモント競馬場についてのドキュメンタリー。厩舎での馬の出産から始まり、調教師や飼育係、馬主、獣医たちの活動、レースをとりまく人々、観客たち、騎手たち、この競馬場の経営を支えるオーナーたちの巨大なパーティとその舞台裏まで、競馬というビジネスのあらゆる側面が映し出される。
1984年の秋にアラバマ聾盲学校(AIDB)で行った撮影の結果、一本の映画にまとめることは不可能だと判断したワイズマンは、約九時間の長編としても成立する四部作として「Deaf and Blindシリーズ」を完成させた。第一部となる本作は、視覚障害の子どもたちの盲学校での日常を、技法的な編集を極力排して丹念に描き出していく。
「Deaf and Blindシリーズ」第二部。聾学校で寄宿生活を送る子どもたちの記録。口頭での会話、聴覚補助、読唇術、筆読などと手話を組み合わせて使うトータル・コミュニケーションによる教育、心理カウンセリング、通常の学科の授業、職業訓練やレクリエーションなど、この学校の中で行われる様々な活動が記録されている。
「Deaf and Blindシリーズ」第三部では、E.H.ジェントリー技術訓練校の日常をとらえる。盲学校、聾学校を終えた人や、成人後に障害をもった人が、生活のための訓練や、社会的に自立するための様々な技術の修得を行っている。自らの能力の限界に焦りや絶望を示す者がある一方、「適応」を終えた人々が作業場で仕事に打ち込む様子は圧倒的な活気に満ちている。
「Deaf and Blindシリーズ」最終章の舞台であるAIDB内のヘレン・ケラー校は、重複障害(多重障害)や知覚障害の生徒に教育と訓練を施すことを目的としている。目が不自由かつろうあの人に加え、盲重複障害、ろう重複障害という三種類の生徒が学んでいる。重度の障害をもつ生徒には念入りな個別指導が行われ、比較的障害の軽い生徒は集団で知育道具や日用品を使ったトレーニングに励む。
カリフォルニア州ヴァンデンバーグ空軍基地で行われる、ICBM(大陸間弾道ミサイル)打上げ管制センターに配属される空軍将校の訓練を記録している。戦略航空軍団第4315訓練艦隊に焦点を当て、核戦争についての道徳的・軍事的議論や、ミサイルの装備、発射、暗号、通信、テロリストの攻撃からの防衛、緊急体制等に関する講義や訓練、職員会議、個人指導などが描かれる。
ボストンのベス・イスラエル病院特別医療班についての映画。尊厳死、脳死、インフォームド・コンセント、インフォームド・チョイスなど、死と生の境界をめぐる末期医療の問題を臨床現場から掘り起こした6時間に及ぶ超大作。ハーバード大学の付属機関であり、先端の医療技術を誇るこの病院の集中治療棟で行われる生命維持装置を使った診療をめぐり、患者と医者が直面する現実に多角的に迫っている。
ニューヨーク市のランドマークのひとつセントラル・パーク。人々は、様々なかたちでこの公園を活用する。ジョギング、ボート遊び、スケートなどのスポーツ、散歩、ピクニック、パレード、コンサートなど音楽や演劇の発表、映画の撮影も行われる。市の公園課はここを維持し、一般に開放するために様々な問題に対処すべく奮闘する。
19世紀には有名な銀鉱山だったコロラド州アスペン。現在は風光明媚な登山、スキーなどのリゾート地、音楽や文化活動の盛んな町、またセレブが住む町として知られる。町の成り立ちを反映するように、自然と人工物、古い価値観とスーパーリッチといった対立がいたるところに見られる。
フロリダ州マイアミのメトロポリタン動物園の日常を記録している。世界中から訪れる入場者、飼育係による動物の世話や獣医の仕事、また、表面には現れない、寄付を募るパーティや広報活動、調査・研究活動などを紹介しながら動物園が運営されるメカニズムに迫る。
ニューヨーク、マンハッタンのスパニッシュ・ハーレム地域にある、『ミュージック・オブ・ハート』の舞台ともなった進学校セントラル・パーク・イースト高校。革新的教育者デボラ・マイヤーの理念に基づくユニークなカリキュラムによる授業、保護者との面談、進路指導、人種、階級、性別についての討論、 教師たちのミーティング、性教育、生徒によるユニークな紛争解決の試み等々、高校生活の様々な場面を映し出す。
ニューヨークに拠点を置くアメリカを代表するバレエ団「アメリカン・バレエ・シアター」の1992年の活動を記録。前半はスタジオでのリハーサル風景やバレエ団の運営に関わる活動を、後半はアテネとコペンハーゲンでの公演を追う。振付家とダンサーたちのリハーサルの様子や、アクロポリス、コペンハーゲン国立劇場という荘厳な舞台での華麗な公演風景は見るものを魅了する。
歴史と伝統を誇るフランスの国立劇団「コメディ・フランセーズ」の全貌。企画会議から舞台のリハーサル、劇場の全景、演出家や俳優たち、楽屋裏の様子、経営委員会や劇団の年金制度をめぐる会議に至るまで、克明に描き出す。ラシーヌの「ラ・テバイット」、モリエールの「ドン・ジュアン」など、四つの芝居の模様が部分的に記録されている。
シカゴ郊外の公共住宅供給事業の記録。居住者のほとんどが貧しい黒人である公共住宅の日常。管理組合の運営、警察の役割、住宅内で行われる職業訓練、青少年のための放課後の活動や託児所の運営といった公共住宅のプログラムや、10代の母親たち、崩壊した家庭、老人問題など、公共住宅が抱える問題を描く。
メイン州にある人口6500人の典型的なアメリカの町ベルファストに関するドキュメンタリー。現在ではメイン州でもっとも貧しい町のひとつであるが、かつては商業的に栄えた町であり、天然資源に恵まれた土地でもある。ワイズマンは「ベルファストの日常生活が経済的圧力によっていかに変化したか、あるいは変化していないかを記録しようと考え、この町の様々な組織とそこでの日常生活を検証した」と述べている。
フロリダ州タンパにあるDV被害者保護施設「スプリング」は年間1650人もの成人と子どもを受け入れている。経済的抑圧、精神的・肉体的虐待、性的虐待…。加害者は被害者を傷つけ、支配しようとする。なぜ家族がお互いを傷つけあうのか、被害者は傷つけられることを許してしまうのか。映画に映し出される現実は、この問題について我々が抱いているステレオタイプを覆していく。
前作が被害者救援施設を舞台としたのに対し、本作ではDVが裁かれる法廷に舞台を移す。当事者同士の接触を避けるため、加害者はモニターに映し出されるだけの法廷。何組もの被害者と加害者が登場し、次々に様々なDVの審理が進められる。延々と映し出されるいくつもの裁判。法廷審理から彼らの人生とドラマが浮かび上がる。
ワイズマンが、コメディ・フランセーズの女優カトリーヌ・サミィのために脚色したワシーリー・グロスマンの小説「人生と運命」の一章を映画化した作品。1941年のウクライナ、ゲットーのユダヤ人はナチによって全員殺されることになった。年老いた女医アンナ・セミョーノワは、息子に宛てた手紙を口述筆記する。自分の人生を振り返り、死と立ち向かう女性の恐怖、勇気、弱さ、そして威厳が浮かび上がる。