海辺の小さな村、古くからある水門が語り始める。「私の物語は水と泥にまみれ、その泥が左右に陸地を生み出した。」即物的だが力強いモノクロ映像と詩的なモノローグによって構成されたネストラーの監督デビュー作。ストローブ=ユイレやトーメよりも早く新しいドイツ映画の幕開けを告げた。
メトロノームとギターの響きに彩られたある都市の肖像映画。炭鉱で栄えた街ミュールハイムは次第に自動車産業労働者のベッドタウンへと変貌してゆく。カメラは街中をめぐり、目立った場所、酒場の賑わい、生活者の姿を収めてゆく。移り変わりゆく光景を詩的かつ弁証法的に捉えた記録映画の真髄といえる。
ライン川のほとりで働く人々。ぶどう棚からの収穫でワインが醸成する。いくつもの輸送船が川を往来し、港で荷物を積み下ろしてゆく。労働者たちの日常、祭りを祝う人々の活気ある表情など、場所と人間のクロニクルを力強く描いた短編映画。詩的なナレーションが具体的な映像との間に絶妙な距離感を生み出してゆく。
ギリシャの民衆の闘争について第二次大戦中から60年代までを追った叙事詩的な作品。全編がネストラー自身の力強いナレーションで語られ、人民の声は直接聞こえないことが記録映画として特殊な距離感を生み出している。初演時の映画評では「共産主義的な駄作」と酷評されたが、ジャン=マリー・ストローブは高く評価した。
ネストラーはスウェーデンのテレビ局に製作基盤を移し、ドイツのルール地方の生活を冷徹に記録した。そこにドイツの共産主義の歴史が交錯する。この映画から当事者の生の声が響き始める。ストローブ=ユイレの『妥協せざる人々(和解せず)』に比肩しうる戦後ドイツの荒廃と闘争の記録といえよう。
スウェーデンテレビ局製作による4部作の第1部。ハンザ同盟時代にドイツやベルギーの労働者がスウェーデンの鉄鋼産業に雇われ、溶鉱炉や武器を製造していた歴史が語られ、それが現在の兵器産業に多くの外国人が従事している現実へとつながってゆく。シリーズは、「2.ジプシー」、「3.イラン人」「4.イラン人 続」と継続した。
スカンジナヴィア半島の北端一帯は「北の冠」と呼ばれ独自の植生を誇っていた。映画はこの地域の人々の文化を捉えてゆくが、その豊かな土壌は産業化の波によって次第に浸食され、1986年のチェルノブイリ原発事故で甚大な放射能汚染を被った。地球環境をめぐる普遍的な問いを投げかける本作はストローブ=ユイレに捧げられている。
1943年、15歳でポーランド東部のソビブル絶滅収容所に送られたトーマス・ブラットは、ソビブルの蜂起を体験して生き延びた53人のうちの一人である。彼は現在の収容所跡地を訪れる。その穏やかな口調にドラマ性はなく、ひたすらユダヤ人を見舞った事実が明らかになる。クロード・ランズマンによる『ソビブル、1943年10月14日午後4時』(2001)の対極をなす作品。
ネストラーと親交のあった映画作家夫婦ジャン=マリ―・ストローブとダニエル・ユイレのユニークな作家性に迫ったドキュメンタリー。2004年ストックホルムでの登壇中の発言や、彼らの映画の抜粋と撮影風景、ペドロ・コスタの記録映画、様々な写真や絵画を組み合わせた芸術家とその芸術の考察を展開する。2006年に亡くなったユイレ最後の撮影現場の姿も見られる。
エトガー・ケレットの短編『空洞人』は体を失い声だけになった者の物語である。そのテクストが朗読され、そこにネストラー自身によるスケッチ画とアルヴァン・ベルクの音楽をコラージュされて詩的な短編映画が生まれた。現在のところネストラー監督の最新作である。
シェーンベルクの作曲した映画音楽を完成させる試み。ただし既存の音楽映画とは異なり、ユダヤ人としてのアイデンティティを語る彼の手紙の朗読の中で演奏が始まり、ブレヒトによる反ファシズムのテクスト朗読、パリ・コミューンの死者の写真、ベトナム戦争の空爆映像などとコラージュされてゆく。