東京フィルメックス関連企画
アモス・ギタイ監督「エルサレムの家 三部作」一挙上映
『家』1980『エルサレムの家』1998『ニュース・フロム・ホーム』2006
2024年12月4日(水)
会場:アテネ・フランセ文化センター
イスラエル第2世代の映画作家として、マスメディアによって作られる類型的なイメージを破壊する映画を作り続けてきたアモス・ギタイ監督が、エルサレムの1軒の家をイスラエル、パレスチナ問題のメタファーとして描いた「エルサレムの家 三部作」を一挙上映。制作当時イスラエル国営放送で放映禁止の処分を受けた『家』1980をはじめ、1998年制作の『エルサレムの家』、2006年制作『ニュース・フロム・ホーム』を上映。『ニュース・フロム・ホーム』は日本語字幕版日本初上映となる。
■上映スケジュール
※チケットは当日14:40から、当日上映分を販売します。
12月4日(水)
15:10 | 『家』(51分) |
16:30 | 『エルサレムの家』(89分) |
18:30 | 『ニュース・フロム・ホーム』(97分) アフタートーク:藤原敏史(『インディペンデンス アモス・ギタイの「ケドマ」をめぐって』『無人地帯』監督) |
■上映作品
家
The House
1980年/51分/デジタル/日本語字幕
監督:アモス・ギタイ
パレスチナ人の家族が、デイル・ヤシンの虐殺(1948年4月)など戦火を恐れて避難した西エルサレム。ドルドルヴェドルシャフ通りにあった一軒の「家」は、1948年5月に独立したばかりのイスラエル政府に接収され、急増したユダヤ人移民たちに住居として割り当てられた。その30年後、今はユダヤ人の経済学の教授が所有し、増改築を進めている。石材が切り出される西岸ヘブロン近郊の石切場、占領地からの出稼ぎ労働者の石工、現在の所有者の教授、イスラエル独立以降の通りの歴史を見て来た近隣の人々、そして「家」の元所有者だったパレスチナ人医師ダジャーニ博士。ユダヤ人国家としてのイスラエルの根源にある解消不能な矛盾を静かに提起するギタイの第一作は、イスラエル当局によって上映・放映禁止処分を受け、ギタイは故国イスラエルを離れることとなる。
エルサレムの家
A House in Jerusalem
1998年/89分/デジタル/日本語字幕
監督:アモス・ギタイ
『家』の制作から約20年。ギタイは「家」の元所有者だったダジャーニ博士の息子(制作当時東エルサレムで開業)とその娘に話を聞く。一方でかつてイスラエル政府に接収されたドルドルヴェドルシャフ通りの「家」の現在の住人達は、それぞれに流浪の民だった記憶を抱えながら、どこかイスラエル国民であることに馴染めないのか、ヘブライ語ではなく英語やフランス語でインタビューに応じる。考古学の発掘現場では聖書の記述と矛盾する遺跡の調査中、その作業員は出稼ぎのパレスチナ人達だ。武器としてのキャメラが数千年に渡り諸民族の十字路だった歴史都市エルサレムの並列する地層を定点観察する中に、1993年のオスロ合意以降の和平交渉の限界があらわになり、今日から見るとパレスチナの地の不穏な将来を予見した作品とも言える。
ニュース・フロム・ホーム
News from Home,News from House
2006年/97分/デジタル/日本語字幕
監督:アモス・ギタイ
和平交渉が完全に行き詰まり、イスラエル政府がガザと西岸の占領地を隔離する分離壁を建て始めた頃、ドルドルヴェドルシャフ通りでは家の新築や増改築が進む。流麗なステディカム撮影のキャメラは物理的・精神的な分断に抗うように壁を超え、西岸ではかつて『家』では名を名乗らなかった石工のユーセフに再会、さらには国境を超えて「家」のかつての住人ダジャーニ家の足跡を訪ねてヨルダンの首都アンマンに向かう。ギタイを歓待する老女は、難民としての亡命先の中東各国で女性の権利の獲得に邁進した人物だった。一方、その彼女が育ったドルドルヴェドルシャフ通りの10年前の住人達は今もそこに暮らし、未来に漠然と不安を感じつつ、イスラエル社会に居場所を見出しつつある。一軒の家の歴史に凝縮された歴史に未だ微かに残る共存の可能性を見出したかに見えた映画はしかし、西岸占領地で和解を不可能にしているのはなんなのかの、決定的な現実を突きつける。
■監督紹介
© Laura Stevens
アモス・ギタイ
Amos Gitai
1950年、イスラエル北部のハイファに生まれる。父は、バウハウスで学びミース・ファン・デル・ローエの助手として働き、ナチス政権を逃れてパレスチナに亡命した建築家。母はロシアから移民し、キブーツや労働組合の基礎を築いた人物である。その家族の歴史は、『ベルリン、エルサレム』(1989)、『エデン』(2001)、『カルメル』(2009)等の多くのフィクション映画にも反映されている。イスラエル工科大学で建築家を志していた頃から8ミリで映画を撮り始めるが、73年のヨム・キップール戦争(第四次中東戦争)で、23歳の誕生日に搭乗していた救援部隊のヘリコプターがシリア軍に撃墜されたことを契機に、必然的に歴史を背負わざるをえない個人を表現するための手段として映画を考えるようになる。1980年の『家』と1982年の『フィールド・ダイアリー』がイスラエル国営テレビ局で放送禁止になり、その後10年間を自発的な亡命者としてパリで過ごす。この頃からフィクションや舞台にも取り組みはじめ、多くの映画人・演劇人と交流。1993年にイスラエルに戻り、現在はハイファ、テルアヴィヴ、フランスを拠点に、世界中を巡りながら精力的なペースで映画制作を続ける一方で、演劇やオペラの演出、ビデオ・インスタレーションなども手がけている。最新作は今年のヴェネツィア国際映画祭で上映された『Why War』2024。