日活は松竹よりも古くから映画を製作していたがそのほとんどは旧劇であり新劇でも女形を使っていた。しかし松竹蒲田の現代劇が出てくると徐々に新派に向かい、新派の女形だった衣笠貞之助らが日活向島で監督として20年にデビュー、松竹の村田実が移ってきたこともあって現代劇が増え始める。1923年の関東大震災以後は関西の大将軍が中心となった。1920年代後半〜30年代初頭にかけてはいわゆる「傾向映画」の時代でもあった。左翼的な思想を盛り込んだ傾向映画はまず時代劇において現われた。伊藤大輔の作品に顕著なように、それは封建的な権力者に立ち上がる農民一揆や浪人達の反乱となって表現された。また現代劇においては資本家に対立する労働者階級の闘争や搾取され転落するヒロインをセンセーショナルに描いたりすることによって映画作家たちは社会に眼を向けた。このような時期に内田吐夢は先陣を切って傾向映画の代表作『生ける人形』(1929)を、そして続いて本作『喜劇・汗』を発表したのである。搾取する側のブルジョワをアイロニカルに喜劇的に描くことを意図して製作された『汗』は、享楽的な生活に退屈した金持ちのドラ息子がある偶然からルンペンに服を取り替えられ、労働者となって汗を流して何かを得るというストーリーである。政治的な主題を持った映画だが、その表現の細部をとってみると喜劇映画作家としての才知に溢れている。