島津保次郎は1897年、下駄用材商と海産物商「甲州屋」を営む父・音次郎の次男として東京日本橋に生まれた。英語学校在学中から映画にのめり込み、逓信省の宣伝映画の脚本募集に入選。映画狂いを苦々しく思っていた父に文才を認めさせた。しかし、親は下駄問屋を任せ、下駄用材を選別するため保次郎を生産地の福島へとやってしまう。しかし金持ちの道楽息子である彼は好きな乗馬をして山中を飛び歩いていたという。そんな折、松竹が映画事業進出のため従業員や俳優募集のため広告をだしたところ、松竹入社を熱望し、父の紹介で小山内薫のキネマ俳優学校(のちキネマ研究所)に入門した。同じ頃の門下生には牛原虚彦などがいた。日本映画史初期の記念碑的作品、キネマ研究所第一回作品の「路上の霊魂」(村田実・21年)の照明係/助監督を、また同研究所第二回作品「山暮るる」(牛原虚彦・21年)の助監督をつとめた。同年「寂しき人々」でデビューするがこの作品は封切られずじまいだった。「山の線路番」「自活する女」「剃刀」(共に23年)などで認められ、松竹蒲田のトップクラスの監督になる。23年の関東大震災によって撮影所が壊滅し、野村芳亭はじめ多くの映画人が京都へ移り住んだが、東京に残って映画製作のチャンスを窺っていた島津は、新しく松竹の撮影所長となった若き城戸四郎と運命的な出会いを果たした。生粋の江戸っ子で、当時で言うモダンボーイだった二人はすぐに意気投合して酒を酌み交わし映画と人生について語り合った。それまでの古めかしい新派悲劇ではなく、サラリーマンや庶民の日常生活を描くことによって新しい「蒲田調」を築き上げようとした。ここにいわゆる「小市民映画」が誕生するのである。島津は新派の舞台の延長に過ぎなかった当時の現代劇映画のなかで、演劇の模倣から抜けだし、映画の視覚的表現と演技の指導を確立した監督の一人であった。サイレント時代の代表作に「村の先生」「大地は微笑む」(共に25年)「多情仏心」(29年)「麗人」(30年)「生活線ABC」(31年)などがあるが批評的には芳しくなく、むしろトーキーになってから新境地を開き「上陸第一歩」「嵐の中の処女」(共に32年)「隣の八重ちゃん」「その夜の女」(共に34年)などの初期トーキーではいち早く独自のトーキーリアリズムを完成させた。そして「お琴と佐助」(35年)「婚約三羽烏」(37年)を経て「兄とその妹」(39年)ではその技法は円熟の境地を極め、ホームドラマの一つの到達を見せている。「兄とその妹」を撮った直後松竹を去って東宝へ移籍した島津だったが製作本数が半減する。戦時下の日本映画では島津のようなメロドラマ的作風が手腕をふるうことができなかった。敗戦の年の1945年、島津は一本も作品を撮ることなく9月に49歳で逝去した。日本で最初の映画学校出身の島津だが、彼もまた自らシナリオ学校を作り新しい作家の育成に力を注いだ。さらに彼の下で修行を積んだ助監督は数多く、松竹蒲田時代には五所平之助、豊田四郎、吉村公三郎、木下恵介らがおり、東宝時代には谷口千吉、佐伯清、関川秀雄らがいた。松竹ホームドラマ=蒲田調の体現者であった島津の作風は、こういった弟子たちに受け継がれ日本映画の本流を形成してゆくことになる。
兄とその妹 1939