1905年秋田に生まれた伊賀山正徳は少年時代に見た「イントレランス」や「死の曲馬団」に影響を受けて映画監督を志すようになり、明治大学に入学するが映画講座がある日本大学美学科に移った。27年の卒業と同時に高松プロ吾嬬撮影所に助監督として入り、翌年京都マキノ勝見庸太郎プロへ移籍。30年には内田吐夢の紹介で日活太秦撮影所へ入り、村田実、阿部豊、内田吐夢、田坂具隆、渡辺邦男らに師事するが30年後半から34年まで伊奈精一の専属助監督をつとめ、日活が企業統合によって大映と合併された後の45年1月まで在籍した。第一回作品は「野の光」(34年)で同年には新設された日活多摩川撮影所に移る。翌年に撮った「少年靴屋」は日活多摩川最後のサイレント映画であった。その後もサトウハチローの随筆による「僕の東京地図」(35年)や天中軒雲月の一連の浪曲映画「悲曲・母」(40年)「母なき家の母」(41年)「生みの母」(42年)、そして43年大映で撮った「海ゆかば」(北条秀司原作、館岡謙之助、五所平之助脚色)などが興行的にヒットした。45年4月朝日映画社に入り、海軍省恤兵映画製作班員となるがすぐ終戦となり、戦後は48年大映東京撮影所に入り企画者となった。のち、ラヂオ映画社製作部長を経て52年東映と契約、「水戸黄門漫遊記」シリーズなどから「力闘空手打ち」「危うしGメン」「にっぽんGメン」「拳銃を磨く男」「こまどり姉妹」まで娯楽作品ばかりを活劇、メロドラマ、現代劇、時代劇問わず予算に忠実で申し分ないプログラムピクチュァの作り手として50年代〜60年代初期にかけて東映の戦力として大活躍した。62年からは東映テレビへ移り映画界から離れた。