作品解説:筒井武文(映画監督)
東京造形大学の3年次の課題として、ゴダールの『気狂いピエロ』の影響下に撮られた8ミリ日記映画。実際に、1日に1日分のシーンを撮っていった。実際の恋人だった二人を使い、逃走劇としてのフィクションを構築と同時に解体していく。浅草花やしきの観覧車の場面をはじめ、撮影を兼ねる諏訪の映画的感性が横溢した傑作。
2週間の撮影で、やはり連日1日の出来事を撮る。その日の結果で、翌日のシーンが決められた。柳愛里と西島秀俊の二人の話となったが、撮影時は三角関係の物語だった。俳優本人として演じることのインタビューが挟まれるが、諏訪本人はフィクションとして破綻したら、なぜ失敗したかのドキュメンタリーにしようと考えていた。
前作で魅力的な存在感を見せた渡辺真起子に、諏訪憧れのスター三浦友和を組ませ、年の離れた男女の同居を描く。台詞が書かれた脚本は存在しないが、二人の履歴書は綿密に作られた。これは即興演出ではない。むしろ、その対極である。俳優の自由が最大に尊重され、撮影所育ちの三浦は戸惑ったが、場の空気感が見事に掬い取られた。
『ヒロシマ モナムール』のリメイクという不可能な挑戦の結果、レネというより、ガレルに接近する。ベアトリス・ダルを招いたこと以上に、撮影をシャンプティエに任せたことが大きい。本番のキャメラがカットの声の後も撮影現場を撮り続け、メイキングと本番を一台のキャメラで往復する手法により、時空は迷宮化していく。
諏訪はロバート・クレイマーと広島をめぐる共同制作を構想していた。彼の父親はアメリカの軍医で、被曝直後の広島・長崎を体験していたのである。しかし、1999年のクレイマー急死により、企画は立ち消える。ここでは死の直前に諏訪に宛てた手紙を出発点に、韓国女優キム・ホジュンを導入し、被害と加害の二元論に揺さぶりをかける。
ヴァレリア・ブルーニ=テデスキとブリュノ・トデスキーニに、離婚寸前の夫婦を演じさせる。友人の結婚式の為に上京し、パリのホテルに滞在する二人。隣り合う部屋の半開きの扉が活用され、ルビッチ的結婚喜劇が現代映画として蘇生される。諏訪と俳優の波長が合い、信じ難い映画的自由を生む。ジャック・ドワイヨンも出演。
イポリッド・ジラルドという、言語を共有しない俳優との共同監督という困難と対峙する。常に新しいリスクに挑む諏訪だが、これには相当疲弊したのではないか。とはいえ、実にユニークな作品に結実した。フランスと日本が通底する森は、少女の通過儀礼としての異界なのだが、それをこれほど幻想的に描かない監督もいないだろう。
広島をめぐる3作目は、被曝により髪が抜け落ち、死につながる学説の紹介で始まる。そして、諏訪の特権的な場と化したホテルの一室での情事。髪型をめぐる遊戯を試みた片山瞳がキュートであるだけに、直後の洗面台での悲劇が不条理そのものに見えてくる。その時の水音と空調のような波動音の均衡の崩れがサスペンスを呼ぶ。
東京藝大映画専攻の教授陣がメインスタッフになり、学生の現場教育用に作られた中編。宅配の青年を誘い込むゴーグルをつけた盲目の女。彼女は青年を失われた恋人だと思い込んでいるようだ。諏訪は脚本に忠実に性愛描写に挑む。しかし、そこで起こっているのは、筒井ともみ的異界と諏訪的即物性との凄絶な闘争である。