■古典映画編
誘惑されて駆け落ちした婚約者を取り戻すために、西部のカウボーイのシャイアンがニューヨークに行き、大暴れする。カウボーイを乗せた馬の群れが目抜き通りを駆け抜ける様を捉えたクライマックスの移動ショットには撮ることの喜びが充溢している。フォードがハリー・ケリーを主演に撮った「シャイアン・ケリー」物の一本。
フォックスに移籍後のフォードが最初に成功を収めた作品。大陸横断鉄道建設に関するこの叙事詩は西部の景観を捉える彼の類い稀な感覚が発揮されている。今日では西部劇の代名詞のようなフォードだが、驚くべきことに、2年後の『三悪人』の興行的失敗により、『駅馬車』(1939)まで13年間このジャンルを撮ることはなかった。
パーティで偶然出会った恋愛未経験の女性飛行家と愛妻家の議員が、たちまち意気投合し、家族ぐるみの友人関係を育んでいくが、次第に互いが惹かれ合っていくという、プレ・コード期ゆえに可能だった作品。1970年代のフェミニスト映画理論の登場と共に再評価されたアーズナーの代表作で、キャサリン・ヘップバーンの初主演作。
*上映素材の状態が悪いため映画には見苦しい点があります。ご了承くださいませ。
マダム・リディア率いる一座で、中心的なダンサーをつとめる、生真面目なジュディと官能的なバブルス。対照的な二人が、ある日ナイトクラブで出会った色男に恋に落ちる。彼の心を掴むため互いを出し抜こうとするが、ジミーは元妻をまだ愛していた。モーリン・オハラとルシル・ボールの魅力が詰まった、アーズナーの代表作。
1920年代末のウクライナの農村。若者たちはトラクターを導入し農業の集団化を進めようとするが、富農たちはこれを妨害し、ついには若者たちのリーダーを殺してしまう。党の御用批評家からは「形式主義」との批判を受けたが、しかしサイレント期ソヴィエト映画の最高峰の一つであり、生と死をめぐる美しい哲学的抒情詩である。
極東シベリアで国境防衛の拠点建設に取り組み、富農や日本のスパイらの妨害と闘う人々の活躍を描き、ドヴジェンコ独特のトーキー演出を味わえる刺激的な冒険映画。前作『イワン』に対する「民族主義」との批判を受け、ウクライナを舞台とせず、ドヴジェンコが初めてモスクワで製作した作品で、愛国心が前面に押し出された。
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兄を殺したと思い込んだ少年が逃げ込んだコニーアイランドでの冒険を活写した珠玉の小品。素人俳優を使い、独自に開発した軽量の35mm手持ちカメラによってロケーション撮影されたこの作品は、ヴェネツィア映画祭で『雨月物語』などと並び銀獅子賞を受賞し、のちのヌーヴェルヴァーグの面々に新たな映画作りへの指針を与えた。
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前作の共同監督レイ・アシュリーが抜け、エンゲル=オーキンの夫婦監督の手になる第二作。幼い娘がいる若くて魅力的な未亡人と男友達との恋愛の顛末が、大人と子供のそれぞれの視点から交互に描かれる。本作から同時録音が使用され、数年後のダイレクトシネマの登場を予感させるスタイルで製作されている点は特筆に値する。
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エンゲルの単独監督作。結婚式と赤ちゃんを専門とした写真館を営みつつ、自分たちは結婚に踏み切れないカップルの姿を、活気溢れるニューヨークの移民街の中で、リアルに描写している。本作に至るエンゲルの三部作は、『バワリー25時』(ロゴーシン、1956)と共に、『アメリカの影』で監督となる前のカサヴェテスが好んだ。
■現代映画編 第1部
60年代後半の全国的な学園叛乱の予兆に満ちた高崎経済大学の闘争の記録。不正入学問題に異を唱え、学生ホールを占拠した学生たちが警察権力と結託した大学当局によって追い詰められていく過程を描く。閉ざされた空間を逆手に取り、クローズアップのつるべ打ちで見せていくスタイルは、学生たちの焦燥感を見事に捉えている。
関西全共闘の中心人物であった京大助手の滝田修率いる「パルチザン五人組」の活動に迫り、土本のスタイル上の転機となったダイレクトシネマ的傑作。大学構内で白昼行われる「軍事訓練」や、バリケード封鎖された百万遍交差点での機動隊との市街戦の最中に火炎瓶によって夕闇に燃え上がる車体の描写は今日なお衝撃的である。
エジソンからリーフェンシュタールに至る映画史とドイツ現代史を重ね合わせ、「史上最大の映画作家」としてのヒトラーを、ヴァーグナーの壮麗さにブレヒトの異化作用をかけ合わせて描く野心作。あからさまに演劇的な舞台装置を用い、『市民ケーン』に倣った回想形式により、側近たちの視点からヒトラーの肖像を語っていく。
■現代映画編 第2部
イタリア人女性とその女友達が過ごす昼下がり。娘ナタリーは暴力的な行動が基で退校させられようとし、ラジオからは逃走中の未成年殺人者のニュースが流れる。そこにセールスマンが不意に現れる。家の内外に潜在する暴力。パリ西方の村に購入した古い農家から発想され、そこで撮られた、空間が重要な役割を演じ始める作品。
小説「ラホールの副領事」を主な源泉とし、大使夫人アンヌ=マリー・ストレッテルへの不可能な愛で狂気に陥る副領事の物語を描く。前作『ガンジスの女』で発見したオフの声を全面的に活用。物語外の語りや、発声源が見えない声が出来事(とその記憶)を喚起し、推測を巡らせる。映像と音響の関係の新たな境地を開いた作品。
多種多様な歴史的・文化的・民族的背景を持つ人々の坩堝と化した、コイケンの故郷である「地球村」アムステルダムの肖像を描く試み。バイク便青年を案内役にそこに住む様々な人々に出会いつつ、時にコイケンのカメラは彼らと地球の裏側まで旅をする。1920年代の「都会交響楽」ジャンルがダイレクトシネマ的手法で現代に甦る。
提供:山形国際ドキュメンタリー映画祭
十年ぶりにアメリカに里帰りしたクレイマーは友人の医師と、国道1号線(ルート1)を辿って、カナダからフロリダ州のキー・ウエストまで東海岸を縦断する旅に出る。寂れた街で出会う人々と二人が交わす対話から現代アメリカ社会の抱える病が浮かび上がってくる。フィクションとドキュメンタリーの境界線上で作られた作品。
提供:山形国際ドキュメンタリー映画祭