中学校1年B組の亀の世話係を臨時で引き受けることになった二人のヴォーワ。趣味も性格も正反対の二人は、亀の早さや耐久力を調べる実験に夢中になる。やがて実験はエスカレートし、ついに戦車が必要となる。ブイコフ監督は、『コミッサール』をはじめ数多くの作品に出演して名脇役として活躍したほか、『転校生レナ』など児童映画を多く作った。
クズネツォフ監督の長編デビュー作。レストランとして港に固定して使用されている帆船「さまよえるオランダ人」号。ある夜、繋留ロープが切断され、船内に大勢の客を残したまま船は岸を離れてしまう。支配人がその場を取り繕うが事態を甘く見ていたために船はさらに漂流してしまい、船内は大騒ぎとなり様々なトラブルが降り掛かる。
1920年代初頭、ロシア革命によりソ連が成立するも国内戦の戦火が治まらぬ混乱の時代、革命を担って死闘を繰り広げる男たちを描いたアクション映画。赤軍兵士らが護送する金塊をめぐり、白軍や無政府主義者たちが入り乱れて激烈な争奪戦が展開する。列車強盗あり、銃火戦ありのソ連版 “西部劇”。『太陽に灼かれて』(1994)や『シベリアの理髪師』(1998)で知られるニキータ・ミハルコフ監督の長篇第一作。
モトゥイリ監督による大流行となったソヴィエト版西部劇。内戦から故郷に戻るため中央アジアの砂漠を通過するスーホフは、砂の中に埋められていたサイードを救出し、行動を共にするようになる。やがて、スーホフは一帯で悪党として名を馳せるアブドゥラの一団に放棄されたハーレムに遭遇し、彼女たちを保護しようと砂漠を引率することにする。
ロビソン監督によるドイツ表現派映画の代表作。裕福な暮らし送っていた夫婦が開催する晩餐会で、夫は、男性の来賓客たち興じた夫人に手を差し伸べているように見える影遊びを事実と信じ込み強い嫉妬を抱く。やがて、影絵使いが訪れ、影絵を披露するうちにその催眠的な効果により、晩餐会の参加者たちは夫人への欲望を巡る幻覚の世界に誘われて行く。
アイルランドの作家ライアム・オフラーティーの小説を映画化。アイルランドの首都ダブリンで、ある結社の一員のフランシスは他の結社との抗争中に誤って警官を射殺し、逃亡生活を余儀なくされる。恋人のケートと再会すると彼女は同じ党員のジポーと恋仲になっており、フランシスを目撃したジポーは嫉妬に駆られ警察に密告し、フランシスは射殺されてしまう。友人を売った罪で仲間から追われることになったジポーは逃走を図る。
靄の中からニューヨークの街が姿を現わす。夜、ウィリアムズバーグ橋を背にして、ひとりの若い女性が少しおびえたような様子で自分のエピソードを語り、立ち去る。次は若い男、と次々に老若男女が現れ、話しては去る。彼らはヨーロッパから移住してきたユダヤ系の人たちだ。記憶と忘却の間で、それぞれのアメリカン・ストーリーが語られる。これらすべての「証言者たち」はニューヨークに住むユダヤ人俳優たちによって演じられ、そのことによってフィクションとドキュメンタリーが融合していく。
場所の名前が表示されることも、ナレーションもなく、ひたすら群衆(雪に覆われた夜の道や大きな駅で重なり合っている人々)をとらえる横移動のトラベリングの映像やや家の中の人々の「ポートレート」が流れる。ソ連の崩壊後の旧共産主義国の都市、そしてそこに暮らす人々の日常生活についての強烈に心をとらえるドキュメンタリー。
小説「ラホールの副領事」を主な源泉として、大使夫人アンヌ=マリー・ストレッテルへの不可能な愛で狂気に陥る副領事の物語を描く。前作『ガンジスの女』で発見したオフの声を全面的に活用。物語の外の語りや、発声源が見えない声が出来事(と、その記憶)を喚起、推測を巡らせる。映像と音響の関係の新たな境地を開いた作品。
『インディア・ソング』の大使館邸として使われたパレ・ロスチャイルドの今や廃墟となった外観、内部を緩慢な移動で捉える映像に、前作のサウンド・トラックがそのまま重ねられる。前作における映像と音のズレをさらに増幅。前作の「忘却」であり、「破壊」である本作を、デュラスは自身が映画でなした最も重要な営為と評価する。