山中貞雄という現象
田中眞澄
一九三二年、映画監督山中貞雄の出現は、直ちに映画界の伝説となった。しかし当時の人々を魅了したサイレント期の彼の映画を、もはや体験できない世代にとって、山中貞雄とは何者であるのだろうか。
いかに彼が発見されたかを復習してみよう。岸松雄、以前は左翼イデオロギーに共鳴していた気鋭の映画評論家。やがて小津安二郎や清水宏のモダンな感覚に傾倒する。彼が山中貞雄の発見者だった。しかもその場所は一部の人々のための試写室ではない。民衆娯楽の猥雑な市場だった浅草の映画館。彼は一般の観客のただ中で、山中の監督第一作『抱寝の長脇差』に出会う。観念的イデオロギーの挫折の後に来たポピュリズム。弾圧と転向の一九三0年代の時代思潮に共通する寓話である。
確かに山中貞雄は傾向映画の終焉に続く一九三0年代現象だった。先輩巨匠伊藤大輔の孤高のパトスとは対照的に、山中映画ではヒロイズムは相対化され、没イデオロギー的に市井の日常性に下降し、沈潜し、時には戯画化される。だが、観客はそこにしばしば無告の人々の友情と連帯を見るだろう。おそらくそこに彼の人と仕事を貫く主題が潜在するのだが、そのようなポピュリズムへの下放、民衆次元での連帯の模索は、時代精神の屈折した抵抗、転生の希求と無意識裡に同調して、彼の同時代的意義を明らかにする。スター・システムから前進座という演技集団への移行も、必然の道程であった。
鳴滝組の同志的結合は会社の枠を無効にし、岸松雄を介した小津・清水との交友は時代劇と現代劇のジャンルを超越して、一九三六年の日本映画監督協会の結成に至る。山中貞雄は映画人の友情と連帯の要だった。その二年後、彼の死は一九三0年代という歴史の帰結として訪れた。彼は時代に殉ずることで歴史を象徴する存在となる。なおかつ私見によれば、小川紳介の『三里塚・辺田部落』(一九七三)は山中的課題の自覚的、社会科学的探求として、時間を超えて呼応し合うのである。