渋谷哲也(ドイツ映画研究者)
映画における脚色の問題は古くて新しい。映画の表現可能性を広げたのが様々な先行芸術であることは明白だが、では《映画的》なものの本質は一体どう定義されるのだろうか。音+映像の連なりの中に置かれた文学的テクスト、その異質な存在感。それは映像のリアリズムの地平を切り裂き、歴史や現実の断層をときに露わにする。そこから現代における《映画的》なものの有り様が見えてくるのだろうか。
第1部ではファスビンダーの諸作品を中心に、ストローブ=ユイレ、ジーバーベルク、ロメールなどドイツ文学のテクストを素材にした多様な脚色映画の方法論を考察し、第2部では映画と映画理論の歴史を自由に横断しつつ、《映画的》なものが内包する《不純さ》のアクチュアルな意味を検討してみたい。