覚悟せよ、「偶然」はすでに「必然」と化している。
さて、あなたならどうする?
蓮實重彦(映画批評家)
ほんのささいな「偶然」が、高崎という何の変哲もない固有名詞を「映画の現在」にむすびつける。国民映画祭というあまり聞き慣れぬ国民的な催しが、国民にはほとんど知られぬまま2001年に群馬県で行われたのだが、この「偶然」をむんずととらえた三人の映画作家が、これをあっさり「必然」に仕立て上げてしまったからである。
そのいかにも図々しい映画作家は、黒沢清と阪本順治と青山真治にほかならない。彼らは、あっというまに三本の作品を撮りあげてみせた。それが、ビデオか、フィルムで撮られたかはどうでもよい話だ。われわれは、それをいま、高崎から遠く離れた土地で、もっとも「現代」にふさわしい映画として見ることができる。歓喜しようではないか。ひそかに高崎でこれを見た者たちの隠匿への意志は、かくして爽快にうち砕かれる。
黒沢清の短編『2001 映画と旅』には、ジェット機と高層ビルと空と列車の窓と見たことのない顔が映っている。阪本順治の短編『新世界』では大阪の「新世界」にいきなりドヴォルザークが響くかと思うと、原田芳雄が流しのギターひきに身をやつして姿を見せる。青山真治の中編『すでに老いた彼女のすべてについては語らぬために』では、中野重治と夏目漱石が皇居を舞台に競演し、相米慎二にオマージュを捧げる。これを見ずにいるあなたは、保守反動と呼ばれる覚悟とともに、「映画の現在」から遠ざかるしかあるまい。
さて、あなたならどうするか。