入海の奥の真清水ー鈴木英夫とその映画ー
田中眞澄
秧鶏のゆく道の上に
匂ひのいい朝風は要らない
レース雲もいらない
鈴木英夫の映画から、ふと伊藤静雄の詩の一節が想起されるのはなぜか。
一九五◯、六◯年代に鈴木英夫は東宝映画の中堅監督だった。その立場でさまざまな娯楽映画を作り、スリラーという特異な分野に適性を示したと見られた。しかし、彼をその時代の東宝プログラム・ピクチュアズの系譜で語ること、或いは世界の犯罪映画の成功者たちと比較すること、つまり映画言説の通俗的修飾の場所に彼を置くことが、何の意味も生じないのはなぜか。
サンパウロ映画祭が『その場所に女ありて』に審査員特別賞を与えた同時代評価が、映画もろとも長年忘れられていたのはなぜか。
<波のとほい 白つぽい湖辺で/そ処がいかにもアット・ホームな雁と/道づれになるのを秧鶏は好かない>からだろうか。彼の映画が“組織と人間”の主題で最も成功したのは確かだが、私がかつてそれらを称して“特権的な単なる孤立”と述べたのは、それらと世界との絶対的な関係についてであった。
桑原武夫は伊藤静雄の詩を<その細くするどい痕跡がいかに深く切れ込んでいたかは、時がたち、幅ひろく浅い痕跡が摩滅するにつれてはっきりしてくる。(略)百年後、彼の名は一そう光りをましているであろう>と評した。だが鈴木英夫の再評価は当分、未然形にとどまるだろう。彼の映画を見るために、観客もまた“特権的な単なる孤立”に耐えねばならないからである。もはや<幅ひろく浅い痕跡>への帰還はありえない。それでもえてその選択に賭けるもののみが、伊藤の別の詩句を実感することになるはずである。
ーいま 入海の奥の岩間は
孤独者の潔き水浴に真清水を噴くー