過酷にして豊麗な映画の極限
浅田彰
音楽家たちが楽譜に向かって演奏する姿が時としてオペラの舞台より感動的なのはなぜだろう。そこでは音楽が刻一刻と身体化されてゆく。同様に、この映画で労働者たちや農民たちの朗読し暗誦する言葉は、それによって確固たる身体を獲得する。そう、ストローブ=ユイレは、かつて「アンナ・マグダレーナ・バッハの年代記」で音楽家たちを往時の環境においてバッハを演奏させたように、登場人物たちをトスカーナの谷に置いてヴィットリーニの言葉を朗読・暗誦させるのだ。語られる言葉から、断片的に、だが立体的に、厳しい冬を乗り切った苦闘の物語が浮かび上がってくる。しかし、周囲の森やせせらぎの陽光に満ちた映像は、おそるべき厳密さと息を呑む美しさで観る者を圧倒する。勝利の映像ではないとして、それは紛れもない映像の勝利なのだ。ストローブ=ユイレのフィルムは、劇映画の約束事をすべて疑い、絶対音楽と似た絶対映画に接近しながら、無駄という無駄をすてたものだけのもつ驚くべき豊かさでわれわれを満たす。映画という芸術の到達した、これは過酷にして豊麗なひとつの極限である。