ダーティ工藤(監督・緊縛師・映画研究者)

無冠の帝王

 三隅繁こと岡伸行が亡くなってから4年ほど経つのだが、未だに彼が死んでしまったという実感がない。今でも「おう」とフィルムセンターでひょっこり会いそうな気がしてならない。というのも彼の死があまりに唐突というか突然で、その死に顔を実際に確認したわけでもないからだ。若い頃は嫌になるほど頻繁に会っていたのだが、一緒に8ミリ映画を撮った後あたりから疎遠になった経緯は、「映画唯物論宣言」に詳しく書いたので、そちらを読んでいただきたい。
岡は昔からプライベートな事をあまり喋らないやつで、映画関連以外で熱く語ったのは意外にもプロレス関連のことだった。彼とはほぼ同世代なので、力道山、豊登、ジャイアント馬場、アントニオ猪木ぐらいまでの、いわゆる”昭和プロレス”世代であった。今では信じ難いかもしれないが、昭和30年代のプロレスというのは野球に次ぐぐらいの人気スポーツであった。私の家は裕福ではなかったが、親爺が熱烈な巨人ファンということもあり皇太子御成婚の昭和34年に月賦(ローン)でテレビを購入していたので、力道山時代よりプロレスを観ていた。赤覆面(モノクロだがアナウンサーが盛んに「赤覆面の!」と絶叫していた)のミスター・アトミックが覆面に凶器を入れ、芳の里か遠藤幸吉が血まみれにされていたのをよく覚えている。岡はさすがにこの辺は観ていなかったが、力道山vsフレッド・ブラッシー、ザ・デストロイヤーぐらいから近所の食堂のテレビで観ていたそうだ。馬場が日本プロレスのエース時代が一番プロレス熱が沸騰していた頃で、岡も学校でプロレスごっこに興じていたそうな。後年、岡に『駅前』シリーズの『駅前茶釜』(64)に馬場が出ていて、馬場にやられる暴漢の一人に若手レスラー時代の吉原功(後の国際プロレス社長)が出ていたことを教えてもらった。プロレス談義の中で岡はドン・レオ・ジョナサンが好きだと言っていた。ジョナサンというのは恵まれた体格とプロレスセンスに優れた凄いレスラーだったが、どこか性格的に醒めたところがあり、そのためなのか大きなタイトルを獲得出来なかった。いわゆる”無冠の帝王”というやつで、何となく岡の不器用な生き方にもダブって見えなくもない。

 過日、FCで池部良が自身の池部プロで製作した『ヴェトナム戦争』(67)の米軍全面協力によるスタイリッシュな画面を観て、「岡に観せてやりたかったなぁ」としみじみ思った。ベトナムの密林のグリーンが映えた抜けのいい画面に友人が「IBプリントじゃないのか?」と言っていたが、その判別が出来るのはおそらく日本では”日本人IBプリント鑑定士第一号”を自称する岡以外には存在しないだろう。因みにIBプリントというのは、インビビジョン方式によるテクニカラー映画のことで、独特な発色で知られるが素人には通常のテクニカラー・プリントとの区別をつけるのは困難だと言われている。岡は完全主義志向(偏執狂?)のため一度解明しようと思ったことに関しては、徹底的に調査し精査せねば気の済まぬ性格である。IBプリント以外でも、色彩映画全般、画面比率など映画画面に関する全般、戦争映画及びそれに関わる戦闘機、銃器類の全般など、要するに映画のテクノロジーに関することは全て守備範囲であった。そのため映画を観ても技術的なことばかりに目が行ってしまい純粋に映画を楽しめなかったのではないのかと心配になる。だが一方ではかなりのエンタテイメント志向でもあり、『007』シリーズなどアクションを中心とした娯楽映画にもかなりの思い入れがあったようである。王道娯楽映画ばかりでなくジョージ・アーディソン主演の『077』シリーズや、ショーン・コネリーの弟ニール・コネリー主演の『ドクター・コネリー キッド・ブラザー作戦』(67)などのくだらなさを語る岡は実に楽しそうだった。それでも結局のところ技術論の方が上回ってしまったのは、岡の完全主義志向の運命(さだめ)としか言いようがない。確認のための確認するため同じことを何度も聞いてくるなどとにかく面倒くさい奴で、おそらくその性格のため編集者が根をあげてしまうため彼による単体の本が一冊も存在しなかったのであろう。だがその専門的知識は他の追随を許さないレベルであり、前記の如く彼の専門知識をまとめた単行本がないため、彼の死によってそれが失われてしまったのは返す返すも残念でならない。友人である丹野達弥が岡の各所に残した文を私財を投じてまとめた三隅繁こと岡伸行の最初にして最後の単行本「映画唯物論宣言」とアテネフランセ文化センターで今回開催される追悼イベントが、無冠の帝王たる彼の凄さの一端を知る切っ掛けになれば幸いである。