「満山紅柿」小川紳介と彭小蓮
上野昂志
小川紳介の声が聞こえる。明るく、メリハリの利いた話し声が響いてくる。その声と、その喋りっぷりに、思わず心が疼き、画面に向かってこちらも話しかけたくなる。これは、しかし、小川紳介を知っているものだけに訪れる、きわめて個人的な感情であろうか。そうかもしれない。そうかもしれないが、といって、そこだけで閉じられるものではないだろう。
映画のなかでは、誰もが生きている。すでに死んだ人も、そこでは元気に話をしている。むろん、それはドキュメンタリー映画においては、と限定をつけるべきなのかもしれないが、その当然のことが、改めて胸に沁みる。フィルムのなかで、人はその固有の時間を生き続ける。小川紳介は、村の人々が話をする姿を克明に撮り続けることにこだわったが、そのことの意味が改めて胸に落ちる。彼はそうすることで、あの人たち一人一人を、その死後においても生かし続けたのである。ドキュメンタリーとは、人をその個別の生において生かす方法なのだ。
ここでは、誰もが、徹底して具体的なことを具体的に話している。それはたとえば、柿商人の佐々木喜美子さんが、彼女の母の夫(ということは彼女の父のことだが、そうはいわない)が、汽車の事故で亡くなった話をどのようにしたかを、思い出してみればいい。すべてが、どこで、どのようにして、どうなったかと具体的なのだ。具体的ということは、同時に、個別的ということである。そこに、決して一般化されたり、概念化されたりすることのない個人の生の記憶が息づいているのである。むろん、それは佐々木喜美子さんばかりではない。ここに登場するすべての人の語りがそうなのだ。これは、しかし、驚くべきことではあるまいか。もし、そうでないと思う人がいたら、テレビのスイッチを入れて、そこで語られている言葉に耳を傾けてみればいい。ここでの語りと対極的な言葉が流れているはずだからである。
さて、ここでわたしは、この作品が、小川紳介から彭小蓮へとバトンタッチされ、最初の撮影から十数年の時間をかけて完成された経緯について書いておかねばならない。
小川と彭が初めて会ったのは、一九八八年のハワイ映画祭のときだったらしいが、親しく話をしたのは、その二年後のトリノ映画祭においてだったという。そのとき小川は、彭の構想中の映画の話を聞くと同時に、彼女のドキュメンタリー志向を感じ取ったようだ。そして一九九一年、小川紳介は、彭小蓮にドキュメンタリー映画を撮らせるべく、彼女を日本に招く。それが七月から八月にかけてのことだが、このあいだの四年間というのが、小川紳介が、そのあまりにも早すぎる晩年の情熱を傾けて、アジアの映画人との交流を深め、彼らのドキュメンタリー映画制作を支援しようと奮闘した時期だったことに、注意を促したい。すなわち、小川が彭と会ったハワイ映画祭の翌一九八九年には、第一回山形国際ドキュメンタリー映画祭が開かれたが、これは、小川紳介が世界のドキュメンタリー映画とその作り手や観客の相互交流の場を創出しようと奮闘して出来たものである。しかも、そこで彼がもっとも強く望んでいたのは、この映画祭が、ドキュメンタリー映画を志向するアジアの映画人をバックアップするような場になることであった。彭との関わりも、また彼が着手したまま、未完で終わったフィリピン花嫁のドキュメンタリーも、そのような活動の現れにほかならないだろう。
そして、かく申すわたしもまた、そのような小川の運動に巻き込まれた一人である。といっても、彭小蓮の『女人故事』を上映したときのシンポジウムの司会をしたり、彼女が企画したドキュメンタリーの資料集めの相談に乗った程度であるが。彼女は、九一年の夏に小川プロに滞在して、『私の日本の夢』という中国人留学生のドキュメンタリー映画の準備を進めるが、その前の三月にも、たぶんそれが初めてだったろうが、日本に来ているのだ。アジア映画祭といったかどうか、その正式な名前は忘れたが、場所は、渋谷のシード・ホール、時は三月三十一日だったことは、はっきりと憶えている。監督を囲んで、台湾の批評家ペギー・チャオと田村正毅キャメラマンとわたしだった。そのとき、会場の真ん中に座った小川紳介が、われわれの話を深めようとしたためか、あるいは観客を活気づけるためか、しきりに質問をするのが楽しかった。その後、彭小蓮に日本でドキュメンタリーを撮らせようという計画が、小川のなかで一挙に膨らんだものと思われる。そんな話を、何度か小川プロの杉並のスタジオでしたし、実際に、七月に彭が来日してからは、中国人留学生の歴史を調べるために、彼女に同道して国会図書館などに行ったことがある。一方、彭小蓮も、そのときに初めて、集中的に小川紳介の作品を見たのだ。残念ながら、そのとき進めた企画は、作品として実るにはあまりに多くの困難があって実現しなかったが、このときの経験は、彼女が映画作家として生きていくうえにおいて、少なからぬ糧となったはずである。
一九九一年十月、第二回山形国際ドキュメンタリー映画祭が開催され、一回目以上の賑わいを見せたが、そのときすでに病を得た小川紳介は参加できなかった。「ボクの代わりに見てきて下さい」という彼の言葉に、背中を押され、わたしはシンポジウムなどにも積極的に参加した。その報告がてら病院を見舞ったときは、まだ元気いっぱいに見えた小川紳介は、しかし、翌年、二月七日に亡くなってしまった。そして、その六年後、小川の伴侶であり、戦友でもあった白石洋子は、一九八四年に撮られ、『1000年刻みの日時計』にどうしても入らないという理由でそのままになっていたフィルムを完成すべく、アメリカから上海と尋ねまわって彭小蓮を探しだし、彼女に残りの撮影と編集を委ねた。それは、小川紳介がこの地上に残した想いを実現させるための最善の選択であったろう。彭小蓮は、改めて小川紳介の作品を見直すとともに、その作業にかかったが、そんなある夜、古い村の像とともに、小川の声が聞こえてくる夢を見たという。彼女は、その小川の声に励まされて、この『満山紅柿』を作りあげたのだ。
柿の紅い実がたわわに実る美しい村のなかに、小川紳介の声が響く。いつも明るく元気なその声が……。