1970年生まれ、その不自由さと自由さと
ジャン=シャルル・フィトゥッシと同世代どころかまったく同じ年生まれの映画作家に、賈樟柯、P・T・アンダーソン、アピチャッポン・ウィーラーセタクンなどがいる。
なぜ1970年にこうも映画作家が生まれているのか、偶然としか言いようがないが、1970年は後にフィトゥッシが助監督として多くを学ぶことになるストローブ=ユイレが『オトン』で古典劇テクストを利用した映画メディアの再検証・再定義を開始し、ロバート・アルトマンが『M★A★S★H』で突然メジャーになり、土本典昭が水俣シリーズを撮り始めた年だ。映画作家が自らの個性という作家性をあえて封じ込め、むしろ映画というメディア自身の特性を自由にし、自らはその映画の機械的原理とそれがとりとめのない現実をどう切り取るかに身を任せることで作家性をとりもどすという矛盾が映画史に刻み込まれた年に生まれ、現代映画が古典的に確立する時代に育ったことは確かだ。
なかでも映画館がまだたくさんあるだけ、以前の世代と同じようなシネフィル文化で育つことができたフランスで、よりにもよってストローブ=ユイレに師事したフィトゥッシとは、映画の機械的・原理的な特性だけでなく、映画史によって既定された映画という制度にも身を任せることで、自らの作家性を決めて行くしかない。だが彼は軽やかな自由さでその世代的な運命である作家個人の不自由さ,映画が決して純粋な自己表現ではあり得ないこと、自己表現を拒否してこそ作家性が成立するという自分の生まれ落ちた現代性の矛盾を受け止める。
それはたとえば、70年代の個性的なアメリカ映画、アルトマンやスコセッシのパスティーシュでキャリアを開始し、ついにはアメリカ的個性神話の自己崩壊を映画自体の破綻に一致させる『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』でやっと作家性に到達できたP・T・アンダーソンの自己破壊的苦悶や、先進国中心の作家的映画マーケットのブルジョワジーなかで「アジアの純情」を装う戦略をとらざるを得ない賈樟柯やウィーラーセタクンの対局にある軽やかさでもある。だからフィトゥッシは携帯ムービーという新しいメディアで映画を撮ってこそ、その目新しさの不自由さの奴隷になりはせず、軽やかにそのメディアに寄り添った映画も創り出してしまえるのかも知れない。
藤原敏史 [映画作家、1970年生まれ。長編劇映画第一作『ぼくらはもう帰れない We can't go home again』(2006)でペサロ国際映画祭「未来の映画」最優秀賞受賞]