荒井晴彦の脚本は「自伝」ではない
土田環(映画研究者)
書くことに憔悴したシナリオライター、女性をめぐり親友に裏切られた中年男、学生運動の敗北を引きずりながら語る言葉を持たない男――たとえそれが、実体験にもとづく人物の姿だとしても、すべては荒井晴彦の「分身」であり創作による「オリジナル」なのだ。
過去の傷を背負った男と女。他人の口調や身振りをなぞらえることでしか、互いの心をうかがうことはできない。『身も心も』の登場人物は人称や人格を変え、『Wの悲劇』『ヴァイブレータ』『やわらかい生活』の女たちと同様に、自らとは異なる「役」を演じることになるだろう。彼らの言葉が本当なのか嘘のなのか、それは重要ではない。あらゆる人間は複数の人格を抱えているのだ。虚実ないまぜの世界のなかで生きのびようとすることこそが、荒井晴彦の映画的主題であり、その脚本に固有の現代性を持ち込むのである。
「アイデンティティ」の苦悩もなければ「自分探し」の旅もない。相手の傷を舐め合って癒されることもない。むしろ、空虚そのものを生き、「モノになりたい」とまで口にする登場人物は、「人」であることを止める。そのとき、荒井晴彦の「似姿」はどれだけいるのだろうか。
荒井晴彦の脚本は自伝ではない。